2016年09月16日

本日、9月16日は“キング・オブ・ザ・ブルース”B.B.キングの誕生日

執筆者:増渕英紀

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“キング・オブ・ザ・ブルース”と呼ばれたB.B.キングがアメリカ・ネバダ州ラスベガスで亡くなったのは昨年の5月14日のこと。キングの死後、すぐさまクラプトンやミック・ジャガー、レニー・クラヴィッツ、リンゴ・スターなどが相次いで追悼のメッセージを発表し、改めて故人の偉大さと信望の厚さを思い知らされたものだった。


B.B.キング(本名:Riley B. King)は、1925年9月16日、ミシシッピ州バークレア生まれ。この辺りは通称“ミシシッピ・デルタ”と呼ばれる一帯で、両親は近くの綿花農場で働く貧しい小作人であった。南部の綿花農場と言えば、黒人奴隷制度の象徴のような存在だが、勿論当時は奴隷制度もとっくに廃止されている。が、それが農園主と小作人という図式に変わっただけで、基本的に南部の伝統産業を支えていたのが黒人の安い労働力だったことには変わりない。


B.B.の母も祖母も熱心なクリスチャンだったことから、教会で歌い始め、そこの牧師からギターを習い、スリー・コードを教わったという。が、南部の保守的で敬虔なクリスチャンの社会ではゴスペルは推奨されても、ブルースは“悪魔の音楽”として聴いたり、歌ったりすることは禁止されていた。


その後、ブルース好きの叔母のお蔭でブルースに出逢い、ブラインド・レモン・ジェファーソン、ロニー・ジョンソン、ロバート・ジョンソンなどにのめり込んだ。しかし、本格的にブルースに身を投じるきっかけになったのは、母の死だったと伝えられる。B.B.はこの時にブルースの奥底に宿っている哀しみ、深い感情表現に魅せられたと語ってはいるが、果たしてその心境はいかばかりであったかと...。


また母のいとこであったブルースマン、ブッカ・ホワイトとの出逢いも大きな出来事だったと思われる。B.B.はメンフィスのブッカの家でギター奏法だけでなく、詩のフレーズの作り方までブルースに関する様々なことを教わっている。そしてブッカのスライドを目の当たりにして、スライドが弾けなかったB.B.は、そのニュアンスを補うためにチョーキングとフィンガー・ビブラートを駆使した独自のスタイルを作り上げたのだから、それがギタリストとしての原点でもあったと言える。


ところで、B.B.のトレード・マークと言えば、スーツとネクタイではなかろうか? 実はそれも“銀行に行って金を借りる時のように、スーツとネクタイをするように”というブッカの教え。これはステージに立つ時の心構えを説いたのだろうと思う。だらしない恰好(気持ち)ではなく、演る以上はキチンと対峙して誇りを持った立ち居振る舞いをしろということなのだろう。B.B.はきっと生真面目な性格なんだろう。遺作となった『One Kind Favor』(2008)まで律儀にそれを守り通している。


そういう紳士たらんとした所は、人種差別に関する受け答えに良く表れている。B.B.はあまり多くを語ってはいない。語らない分辛いことが多かったのかも知れないが、子供の頃の記憶として語られているのは、学校に通うのにB.B.は歩いて通ったが、白人はスクール・バスで通っていたという事実。トイレが白人用とカラード(黒人用)に分かれていたことなどを淡々と述懐している。そうした言葉の端々から伝わって来るのは、当時の南部に根強く残っていた“人種隔離政策”の実態なのだが、それに対して決して非難などしていない。事実を語るだけで十分だと思っていたのか。それが彼なりのプライドだったような気がする。

One Kind Favor  B.B.キング

SINGIN' THE BLUES  B.B.キング

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