2017年07月18日
スポンサーリンク
2017年07月18日
7月18日は浜田麻里の誕生日である。
「最初から、“しない、しない、ナツ”というフレーズが決まっていたから、それを元にして歌詞を広げていくという作り方をしました」
1989年夏、大塚寧々をモデルに起用して、カネボウ化粧品が展開したキャンペーンのCMソングである「Return to myself〜しない、しない、ナツ」がリリースされたとき、浜田麻里はこんなコメントを残している。
すでに決まっているキャッチコピーをいじることなく、そのまえに“心 染め直し”という言葉を付け加えることで、見事に女性らしい感性を描きだすことに成功したことが、この曲のヒットにつながったといえるだろう。
TVCMからヒット曲が生まれる図式が定着した時代背景ではあったが、この曲がオリコンチャートの1位を獲得したことで、浜田麻里の名前は一般的にも、広く知られるようになったのだった。
その前年に行われたソウル・オリンピックNHK中継テーマだった「Heart and Soul」の中ヒットがあったことも、ブレイクする下地になっていたことは確かだが、その時代を意識した楽曲作りに目を向けていた彼女のセンスが、ようやく幅広い世代に受け入れられた瞬間でもあった。
「麻里ちゃんはヘビィメタル」という糸井重里のキャッチコピーで登場した83年のデビューは、衝撃的ですらあった。
81年のラウドネスのデビュー以来、ライヴ・シーンでムーヴメントとなっていたジャパニーズ・ヘヴィ・メタル・シーンからは、アースシェイカーや44マグナムといったバンドが続々とデビューを飾り、新たなムーヴメントと目されていた時期があった。
革ジャンにスタッドの付いたベルトやブレスレットなどに代表されるように、ハードで男くさいイメージのヘヴィ・メタルというジャンルに、ミニ・スカートに松田聖子のような爽やかな髪型の少女が登場したこと、そして糸井重里のキャッチコピーは、それまでのヘヴィ・メタルの男くさいイメージを一新するものだった。そう、現在のBabymetalにも勝るとも劣らないほどのインパクトを持って、浜田麻里は世の中に切り込んでいったのだ。
その音源制作にあたって、プロデューサーに起用されたのが、ラウドネスのドラマーであり、2008年11月に肝細胞ガンのために死去した樋口宗孝だった。その時期、ラウドネスの所属事務所と浜田麻里の所属事務所の社長は兄弟だったこともあり、ラウドネスのメンバーがミュージシャンとして、もう一段階上の制作能力を磨くためということもあって、積極的にコラボレーションを行った。
同じ事務所に所属していた16歳の新人ヴォーカリスト、本城未沙子のプロデュースをラウドネスの高崎晃が手がけたことに対して、浜田麻里を手がけた樋口宗孝はドラマーだったこともあって、彼自身のプロデュース・チームを結成することになる。
それは、樋口宗孝が思い描いた音像を、ギター・リフやコード進行など具体的な形に整える作業をするチームで、その母体となったメンバーたちで結成されたのが、「聖闘士星矢」のテーマソングでのちに有名になるMAKE-UPのメンバーたちだった。
このチームによって、83年3月には浜田麻里のデビュー・アルバム『LUNATIC DOLL〜暗殺警告〜』がリリースされ、翌4月には樋口宗孝の初ソロ・アルバム『DESTRUCTION〜破壊凱旋録〜』が、矢継ぎ早に送り出される。2枚のアルバムをほぼ同時進行で制作するという経験が、樋口宗孝のスキルアップに役立ったのはもちろんのこと、その制作過程をすぐそばで見ていた浜田麻里自身に、大きな影響を与えたことは間違いがない。
ときには、このチームのために得意の手料理をごちそうすることもあったというが、デビュー当時のヘヴィ・メタルなヴォーカリストというイメージとは逆の、そんな意外な部分も周囲のひとたちに彼女が愛される要因だった。
83年12月のセカンド・アルバム『ROMANTIC NIGHT〜炎の誓い〜』の制作後、ラウドネスの海外進出が本格化した樋口宗孝は、物理的に浜田麻里のプロデュースから一歩身を引く形となったわけだが、作曲やアレンジなどを個人的にバックアップ。それ以降の長きに渡って、公私ともに良きパートナーシップを確立することになった。
その後、80年代中期から、セルフ・プロデュースを行うようになった浜田麻里だが、このデビュー時に学んだプロデュース法を元にして、「 Return to myself〜しない、しない、ナツ」での、印象的な歌詞作りなどが完成していったのだった。
「最近、いちばん落ち着くのがキッチンで歌うことなんですよ。キッチンに録音機材を入れて、納得するまで歌うんです」
その後、海外のプロデューサーとのレコーディングなども経験して、どんどん経験値を増やしていった彼女だが、90年代の終盤には完全にセルフ・プロデュースの体制を整えて、2年に1作というペースでアルバムをリリースしていくようになった。それでも、いちばん落ち着く場所がキッチンだという、いかにも彼女らしいコメントに、思わずこちらも笑顔になってしまったことを覚えている。
2013年夏、「FNSうたの夏まつり」に登場したときに、その変わらない美貌と声量が話題となり、2014年の「Summer Sonic」、2015年の「LOUD PARK」などの夏フェスに登場したことで、その美魔女ぶりに驚いた若い世代たちに検索されて、そのリアルな活動ぶりが認められたけれど、基本的な部分では、樋口宗孝とのチームワークを完成させたデビュー当時と、ほとんど変わらないセンスと感覚で、彼女はデビューから34年目を迎えているのだ。
なにも変わらないといえば、現在でも彼女のライヴを支えているベースの山田友則は、彼女がアマチュア時代のマリ・バンドから、変わらずに彼女のステージに立ち続けている。
そう、完成しているならば、それをあえて変える必要はないのだ。時代はふたたびめぐってくる。浜田麻里の活動を見ていると、そのことを強く思わずにはいられない。
≪著者略歴≫
大野祥之(おおの・よしゆき):1955年4月1日、東京神田で生まれる。1971年、初来日したレッド・ツェッペリンに、16歳でインタビューを行う。21歳から、本格的な執筆活動に入り、「ミュージックライフ」「音楽専科」「ロッキンf」「ヤングギター」「ドール」などの音楽雑誌に執筆。80年代には、44マグナムを筆頭にジャパニーズ・ヘヴィ・メタルのバンドをプロデュースするなど、活動の幅を広げた。2000年代に入ってからは、母親の介護を8年間経験。現在でも、ライヴ・シーンで若くて元気なバンドたちを発掘している。