2016年06月14日
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2016年06月14日
1975~6年 頃のロンドンが一番面白い時代だったという説がある。振り返るとその当時、僕はロンドンに住み始めて3年目だった。偶然知り合ったイギリスの若手写真家のグループに誘われ、彼らの一員となった。その時彼らと住んでいたのがロンドンブリッジの近くの大きな倉庫だった。大きな暗室や個人のプライベートな部屋が一軒の倉庫の中にあって僕はここに3年間暮らしていた。
隣の倉庫には音楽のリハーサルスタジオがあって、僕の部屋の壁越しに音が聴こえてきた。オックスフォードストリートの100番地に「100クラブ」というライブハウスがあった。1976年のことである。幾つかの新しいバンドのライブがここで行われた。
その日、ロンドンの音楽シーンと若者の価値観がガラリと変わった。セックス・ピストルズ、クラッシュ、スージー・アンド・ザ・バンシーズ …。パンクロックの誕生だった。倉庫から聴こえてきたバンドの音だった。音楽を聴いてもファッションを見ても、街を歩く若者にとっては驚きの連続だった。
それから3年が経とうとしている時、ロンドンの若者の間では、早くもニューウエーブという言葉が流行していた。
何よりも新しさや、自分だけのオリジナリティーを渇望する若者が集まって来るブリッツというクラブが有名になった。
このブリッツで初めて彼らの存在と彼らのファッッション性に触れた時の驚きを今でも鮮明に覚えている。まるで深海魚の水槽の中を覗き込む様な幻想と、次に来る新しい時代の扉を開けるときめきが混ざり合った不思議な感覚だった。
ありとあらゆる工夫とセンスが彼らの衣装やメイクに現れていた。その中にいたとても綺麗な女の子にカメラを向けてフラッシュをたいた。「良い写真撮れた?!」その彼女から発せられた声は男の声だった。これがジョージとの初めてのコンタクトだった。それ以後もジョージはとてもフレンドリーで沢山写真を撮らせてもらった。
その頃僕はイギリス人の友人であるジーンとジョニーの家に居候をさせてもらっていたのだが、偶然にこのジョージが同じフロアーに、やはり居候として引っ越してきたのだった。僕も彼も貧乏で、家賃を払う余裕がなかったのである。彼の部屋は衣装とメイク道具が散乱していた。
女型ということをイギリスの人々はどう受け止めていたのだろう。おそらく街では偏見を受け、落ち込むこともしばしばあったに違いない。
しかし、彼は日本の歌舞伎には女形という確率された文化があることを知っていて、そのことが彼に女形を続ける勇気を与えていたのではないだろうか。だから僕だけではなく、ロンドンに住んでいた日本人たちとは仲が良かった筈だ。
ある日彼はバンドを作るんだ、と言って新しい家に越して行った。それから数ヶ月後、コンサートをするからという連絡があった。ビクトリア駅の地下にある古いライブハウスに行った。
「今日から僕はボーイ・ジョージさ」彼は尚一層輝いて、生き生きとして見えた。
彼の人気は瞬く間に広がり、世界の寵児となった。ヨーロッパや日本のツアーにも同行した。1983年だったか、僕はツアーの途中で彼に一枚の写真を見せた。フロアーをシェアしていた時に撮ったもので、貧相なベッドの 中で目を覚ましたばかりの彼が写っていた。
ジョージはもはやかつての様な貧乏人ではないのだから、このような居候時代に写した写真は、彼の自尊心を傷つけるのでないだろうかという一抹の不安もあった。
しかし、彼はその写真を見るや、大声で「ほら、これがハービーが撮ってくれてた、リアルな僕の姿さ!!」と飛び上がらんばかりに喜んでバンドのメンバーやスタッフに見せて回ったのだった。
最後に彼に会ったのは1980年代の中頃だったろうか。彼には様々な出来事があっただろうと想像する。
2年ほど前に彼のツイッターを見つけたのでメールを送ってみた。「やー、ハービー、どうしているの? 日本で幸せ?? Are you happy in Japan?」という返信があった。
次に彼に会ったら聞いてみたい。「人はどうしたら幸せになれるのだろうか!」と。
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