2017年10月12日
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2017年10月12日
それにしても「放送禁止歌」とは大それたタイトルだ。挑発的であり、権力に真っ向から喧嘩を売っている。がしかし、この曲はそういった社会的なメッセージを持つだけではなく、文学的な試行でもあったのだ。世の中に氾濫する四文字熟語を、その順列を組み替えるだけで新しい意味を持つようになる。これは現代詩にも似た、表現の実験でもあったのだ。
このような言葉への挑戦は、山平和彦のデビュー・アルバム『放送禁止歌』の中にも、多く見られる。彼の地元であった秋田地方の民謡に材をとった「秋田馬子唄」や「仙北荷方節」などにしても、民謡の中から残忍なまでの凶暴性や、滴り落ちるようなエロティシズムを見つけ出していった。現代詩人の野田寿子の詩に旋律を乗せて歌った「月経」(この曲はアウシュヴィッツの惨劇をモチーフにしている)などにしても、山平の言葉に対する鋭い視線が光っている。
「放送禁止歌」は森達也氏の同名のドキュメンタリーでも有名になった。この作品の中で山平和彦は、放送禁止によって未来を奪われた悲劇のヒーローのように扱われていたが、実は放送禁止こそ、強力なプロモーションでもあったのだ。
要注意歌謡曲指定制度、俗に言われる放送禁止のことなのだが、これは民放連(日本民間放送連盟)の定める内規であり、法律的な拘束力を持つものではない。つまりは自主規制であるのだ。また審査に時間がかかるために、発売され少し時間が経ってから放送されなくなる事も少なくなかった。つまり、処分が決まるまでラジオで頻繁に流されることもあったのだ。
筆者を例に挙げれば、フォーク・クルセダーズの「イムジン河」も、高田渡の「自衛隊に入ろう」も、岡林信康「くそくらえ節」も、ラジオでその存在を知った。放送禁止となりラジオでオンエアされなくなれば「しょうがないからレコードを買うか」、そんな風に思ったものだ。こんな即効性のあるプロモーションは無いだろう。
かくして目出度く、山平和彦「放送禁止歌」もそこそこのセールスを記録したと聞いている。その後の山平和彦にしても、デビュー作の『放送禁止歌』の後に、名曲「たまねぎ」や「ぼうやの五寸くぎ」などを含むセカンド・アルバム『風景』(73年)や、センチメンタル・シティ・ロマンスやマイ・ペースと共演したライヴ・アルバム『ライヴ! 山平和彦』(74年)などの意欲的なアルバムをベルウッド・レーベルに残し、日本フォノグラム系のニューモーニング・レーベルに移籍したのちも、『星の灯台』(75年)や『女郎花の譜』(76年)などのアルバムで、独自の世界を展開していった。
岐阜に移り住み、深夜放送の人気DJとして活躍すると同時にバンドを組んで活動したことなども含めて、フォーク・シンガーとして成功を収めた部類に入ると思う。ソングライティングの実力からしても、「放送禁止歌」は単にキャリアのひとつでしか無かったと思う。
最後はとても残念であった。2004年の10月12日に足立区の路上でひき逃げ事故に会い、翌日の未明に帰らぬ人となってしまった。享年52。歌手としてもプロデューサーとしても、やり残したことは多かったと思う。‘’伝説のフォーク・シンガー”としてだけでなく、もっと数多くの作品を残せたかと思うと、本当に無念な気持ちになってしまう。
≪著者略歴≫
小川真一(おがわ・しんいち):音楽評論家。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員。ミュージック・マガジン、レコード・コレクターズ、ギター・マガジン、アコースティック・ギター・マガジンなどの音楽専門誌に寄稿。『THE FINAL TAPES はちみつぱいLIVE BOX 1972-1974』、『三浦光紀の仕事』など CDのライナーノーツ、監修、共著など多数あり。
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