2017年08月31日
スポンサーリンク
2017年08月31日
1961年8月31日、杏里(ANRI)は神奈川県で生まれた。
1978年11月5日、彼女が「オリビアを聴きながら」(作詞・曲/尾崎亜美)でデビューしたのは、17歳、彼女が高校2年生のときだった。
ぼくが大学に入学し、上京した年のことだ。
よくラジオで流れていたこともあって、メロディーもすぐに覚えたから、♪ジャスミンティーは眠り誘う薬・・・、なんて、口ずさむようにもなった。
ジャスミンティーは飲んだことも、その名前を聞いたこともなかったけど、この歌のおかげで、「そんなティーがあるんだ!」ってことは強烈に頭に刷り込まれた。
なんだかおいしそうで、なまめかしくて、大人っぽくて、ずっと気にはなっていたが、実際にジャスミンティーを飲んだのは30代になってから。
かなり妄想を膨らませていたせいか、妄想していたほどスペシャルな感覚はなく、眠くもならなかった。
でも、そのほんのりとやわらかな香りをかぐと穏やかな気持ちになれた。
いきなりジャスミンティーの話に脱線してしまったが、自然に口ずさんでしまうほどの歌には、何かを妄想させる力があるんだろう。
ぼくは高校までは田舎町で暮らしてた。
当時、ともだちのほとんどがフォークソングに傾倒していたこともあって、ぼくもフォークに熱を上げ、アコギを買い、フォークデュオを組み、大学に入学するやいなや、授業にはほとんど出ずに、憧れのミュージシャンたちを真似て曲を作ってうたったりしていた。
そして、その頃に聴いたのが杏里の「オリビアを聴きながら」。
ぼくのなかでは新しい音楽だった。杏里だけじゃなく、もちろんユーミンなんかもそうだったが、ユーミンは自分で曲や詞を作っていた。
わかりにくいといけないので、少しぼくにとっての音楽を整理しておこう。
高校生の頃は、ぼくのなかでの音楽ジャンルは、単純に分かれていた。
演歌、歌謡曲、フォーク、ロック(ここまで日本)、洋楽(これ海外)。
あまりにも大雑把すぎて笑われるかもしれないが、ほんとにそれくらいの区分けしかなかった。
そして日本の音楽は、提供曲の歌(演歌、歌謡曲)、自作曲の歌(フォーク、ロック)に区別されていた。
脳内がこんな感じだったから、自作曲をうたうユーミンと提供曲をうたう杏里は明らかに違っていたのだ。
だけどユーミンは、フォークでもロックでもなく、杏里は演歌でも歌謡曲でもなく、どちらの音楽にもどこか同じ匂いがあった。
そこでようやく、ぼくのなかにもうひとつジャンルが増える。
「ああ、これがポップスか!」と(もちろん自己解釈)。
「ポップスって、めちゃ大きいジャンルやな!」と。
それから数年後、ぼくは音楽雑誌の編集者として働きはじめ、杏里への取材も担当するようになった。
いつのまにか、杏里は自分でも詞曲を作り、セルフプロデュースまでしていくようになる。
海外でレコーディングをしたり、海外でライブをやったり、外国の著名なダンサーを日本に呼んでステージに立ったり、自分自身もダンスパフォーマンスを取り入れてうたったり、まるでリミッター知らずの活躍をしていくようになるのだ。
そうやって、直接話しを聞く機会ができてからの杏里は、ぼくのなかの音楽ジャンルをぶっ壊しながら、どんどん自身の音楽スタイルを広げていった。
TVアニメ主題歌「CAT’S EYE」の“大ヒット”は、それを歌ったのが杏里じゃなければ、「アニソンで大ヒットした人ね」で終わってしまうくらいの“リスク”もあった気がするが、そんなところにとどまらず、彼女は次々に名曲・ヒット曲を生み出し、シンガー・コンポーザー・プロデューサー・パフォーマー・・・と、いろんな才能を開花させ、複合させて、時代を駆け抜けてきたのだ。
もちろんそれは偶然なんかじゃなく、彼女自身に、そんなふうに広がっていく未来へのイメージがあったからこそ。
来年はデビュー40周年を迎えるが、これだけの振り幅を持って活躍を続ける人を、ぼくはそんなに知らない。
今はロスで暮らしているようだけど、日本での活動も、杏里にはまだまだ期待していたい。
≪著者略歴≫
テレビアニメ『キャッツ・アイ』の放送が始まったのは、1983年7月11日のこと。オープニング主題歌「CAT'S EYE」(作詞:三浦徳子、作曲:小田裕一郎、編曲:大谷和夫)の歌唱を担当したのは、...
ニュー・ミュージックの興隆期に頭角を現し、中島みゆき、長渕剛ら幾多のアーティストを支えた名アレンジャー、瀬尾一三。今日9月30日は瀬尾一三の誕生日である。text by馬飼野元宏
37年前の本日、1978年11月25日、「戻っておいで・私の時間」で竹内まりやがデビュー。当時、竹内まりや、杏里、堀川まゆみで新々三人娘として売り出していたことを憶えていらっしゃるだろうか。 ...