2015年11月25日
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2015年11月25日
そう言えば、11月25日は竹内まりやがシングル「戻っておいで・私の時間」でデビューをした日なんですね(1978年のこと)。あまりにも時間が経ってしまったので、言われなければ忘れていました。S編集長から「デビュー秘話」のようなものを書けとのお達しなのですが、どうも秘話だの裏話だのと正面切って言われるとなんだか居心地が悪くなってしまうんですけど、「秘話・裏話のようなもの」で、ひとつご勘弁を。
さて、同時発売のアルバムは「BEGINNING」でした。アルバムはともかく「戻っておいで・私の時間」に関してはあまり語る資格がないような気がしています。というのも、まだかけ出しのディレクターとしてスタジオ・ワークはなんとかこなしていたものの、社外政治的なものにはまったく疎くて、なにがなんだかイングリ・モングリのまま進んでしまったので。後付けで「こうだったのか」と理解できたことから話し始めてみましょうか。
この曲の発注にも、ましてやCMタイアップにもまったく僕は関与していなかったのです。初めて聴いたのがレコーディング現場だったなんて始末なんですから。曲は加藤和彦さん、詞が安井かずみさん、アレンジが瀬尾一三さんと大先輩ばかり。しかしレコーディングが始まったとたん、「おやおや」と思ったことは確かです。だって、出てきた音はDr. Buzzard's Original Savannah Bandの”I'll Play The Fool"と”Cherchez La Famme”にそっくりなんですから。パクリですか! と思いましたが、日本のニュー・ミュージックなんてこんなものなのかもね、とその場では口をつぐんでいました。それでも、のどに刺さった魚の骨みたいでいつまでもスッキリとしない気持ちだったんです。
レコーディングが終わると、一緒にプロデュースをしていた牧村憲一さんから「これは伊勢丹のCMになるから、制作会社に行ってきてくれ」なんて言われてしまってね。ひとりでノコノコと出向いたんです。原盤権とかプロモーション印税なんて言われてもよくわかっていないので、相手の言うままに合意(契約のようなもの)をして帰ってきたんです。会社に戻って大目玉を食ったことは言うまでもありません。
にしても、CMに使われるなんて大そうな話でしたが、TVでオンエアされるわけでもなく伊勢丹新宿本店の店内で流れるだけどいう代物。なんちゃら印税を払わなければならないなんてずいぶん無茶な話でしょ?
しかし、当時の伊勢丹がうち出すテーマは、「も・め・ん・と・木」「あ、風が変わったみたい」「戻っておいで・私の時間」と名コピーの勢揃いでしたね。
さて、プロモーションの段階。いくら頭をひねっていてもいいアイディアは出てこない。宣伝文句:「現役慶応大学生」「ミス桜の女王(なにそれ?)」
「LA録音でデビュー」「作家陣:林哲司、細野晴臣、高橋幸宏、山下達郎、杉真理(みんな揃ってマイナーでしたから)」これだけ。
当時はアイドル全盛で、23歳の新人なんて一種のきわもの扱いされてもおかしくないような時代でしたね。困っていると、牧村さんが、「まりやとさぁ、フォーライフの杏里とソニーの堀川まゆみでさぁ、新々三人娘をでっち上げればいいじゃん」と来た。何を今さら、とは思いつつ代案もなく(当時の牧村氏との間のルールに、代案がなければ反対してはならない、というのがあったので)、それをひっさげてプロモーションに行くと、思いのほかメディア受けがいい。平凡・明星はもちろん、GOROではカラーグラビア3ページもの特集。「新々三人娘」かなり効果的でしたよ。さすがは策士牧村憲一! 気になった点が一点。「戻っておいで・私の時間」と杏里の「オリビアを聴きながら(尾崎亜美:作詞・作曲)」が似てるんですよ。誰からも指摘されませんでしたが、僕の耳には似ていると思えてしょうがなかった。
「戻っておいで・私の時間」ですが、アレンジはともかく、曲としては佳曲だと思っていたので、いつか機会があったら録り直してみたいと思い続けて数年。まりやが休業宣言をすると、会社はあたりまえのようにベスト盤を出せと言ってきた。はいはいわかりましたよ。いい機会なので「戻っておいで・私の時間」だけは服部克久さんのアレンジで録音し直したんです。自分で言うのもなんですが、素晴らしい出来でした。
その後、彼女のアルバムで服部さんを起用しているのを眺めていると「ハハハやっぱりね」とほくそ笑んでいたのですよ。だって達郎は「それはないでしょ」なんて反対したんですから。
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