2017年11月08日
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2017年11月08日
今から4年前、2013年11月8日に世を去った昭和の大歌手・島倉千代子の訃報に日本人の多くが大きなショックを受けた。享年75はまだ若かったし、同年代で早逝してしまった美空ひばりの分まで長く生きて歌って欲しいという願いはファンならずとも抱いていたことだろう。しかし1955年に「この世の花」でデビューしてから60年近く、生涯現役で歌い続けた島倉はおよそ2000曲のレコーディングを行ない、数多くのヒット曲を世に遺した。今年もまた命日を迎え、いつも我々を癒してくれた優しい笑顔と歌声が想い出される。
54年の「第5回コロムビア全国歌謡コンクール」で優勝した後、翌55年に出されたデビュー曲「この世の花」は大ヒットし、まだ正確な売り上げデータが無かった時代ながらダブルミリオンを記録したともいわれる。続けて「りんどう峠」「逢いたいなァあの人に」「東京だョおっ母さん」「からたち日記」と大ヒットを連発。60年代に入ってからも「恋しているんだもん」「襟裳岬」「ほんきかしら」「愛のさざなみ」をヒットさせた。70年代には借金の保証人になったことで自らが多額の借金を背負うというプライベートでの労苦を重ねながらも、歌手活動は途絶えることなく『NHK紅白歌合戦』の連続出場記録も続いたのである。79年にはアニメ『宇宙戦艦ヤマト』の主題歌「サーシャわが愛」を歌って話題となり、80年代に入ってからも「鳳仙花」をヒットさせるなど活躍を続けた。そして87年、後半生の代表作となる「人生いろいろ」に出会う。これが翌年にかけてのロングヒットとなり、前年に30回連続出場を機に辞退表明した紅白歌合戦にも、88年の暮れに2年ぶりの復帰を果たして同曲を披露している。
「人生いろいろ」を作曲したハマクラこと浜口庫之助と島倉千代子との縁は深い。遡れば、代表作のひとつである58年の「からたち日記」のB面だった「待ち呆けさん」は浜口の作曲であった。作詞はまだ駆け出しだった星野哲郎。後に星野が大家となってから、B面ながらもスター歌手のシングルに採用されて嬉しかった、忘れられない一曲と語っている。そして68年の「愛のさざなみ」はなかにし礼の作詞、浜口庫之助の作曲による、島倉千代子のレパートリーの中でも最もポップス寄りのナンバーとして知られるヒット曲である。浜口の提案でLA録音が敢行され、現地で活躍中のスタジオ・ミュージシャン、ボビー・サマーズがアレンジとギター演奏を手がけた。ドラムがビーチ・ボーイズやサイモン&ガーファンクルのレコーディングに参加していた名プレイヤー、ハル・ブレインだったという説もある。61年の「恋しているんだもん」や、66年の「ほんきかしら」から連なる、島倉のキュートな歌声が活かされた傑作は、『第10回日本レコード大賞』で特別賞を受賞した。
ちょっとコミカルな作風の中になんともいえないペーソスが漂うハマクラ節と、哀愁の表現力に無類の才能を発揮した島倉千代子の相性はバツグン。「人生いろいろ」はその後、94年と2004年に紅白歌合戦に出場した際にも歌われ、紅白のステージでは計3回歌われたのだった。島倉の波瀾万丈の人生を想うほどに曲の持つ意味もより深くなるし、作詞した中山大三郎が星野哲郎に師事していたことも運命と縁を感じてしまう。島倉にとってはもちろんのこと、今年が生誕100年にあたる浜口の作品の中でも指折りの傑作と言われる所以だ。あまり知られていないが、実は「人生いろいろ」の翌年、88年にも同じ中山×浜口コンビによるシングル「心うきうき」を出している。これがまた明るくポップな良曲で、もっとヒットしてもおかしくなかったと思うのだが、それだけ「人生いろいろ」の存在が大きかったことの証明ともいえるだろう。
「この世の花」「ほんきかしら」「人生いろいろ」「心うきうき」写真撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
鈴木啓之 (すずき・ひろゆき):アーカイヴァー。テレビ番組制作会社を経て、ライター&プロデュース業。主に昭和の音楽、テレビ、映画などについて執筆活動を手がける。著書に『東京レコード散歩』『王様のレコード』『昭和歌謡レコード大全』など。FMおだわら『ラジオ歌謡選抜』(毎週日曜23時~)に出演中。
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