2015年12月02日
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2015年12月02日
ラテン・バンド“浜口庫之助とアフロ・クバーノ”として紅白歌合戦にも出場した後に作詞家・作曲家に転向し、数々のヒット曲を世に送りだした浜口庫之助。愛すべき天才音楽家が惜しまれつつこの世を去ったのは、昭和から平成になって間もない、1990年12月2日のことだった。それからもう四半世紀もの月日が流れたことになるが、“ハマクラ”の愛称で知られる氏の作品は、今も多くの人々に愛され続けている。
裕福な家庭環境の下で育った浜口は、音楽好きの家族の影響もあって、幼少の頃から既に楽譜を読めたという。10代の終りにダンスホールのバンドボーイとなってギターの腕を磨き、青山学院大学在学中にはバンドを組んで活動した。戦後になって進駐軍キャンプで演奏していた頃は、灰田勝彦率いるハワイアン・バンドのメンバーとなった時期もあった。自らも幾つかのバンドを結成し、最終的に落ち着いた“アフロ・クバーノ”では、53年から3年連続で「NHK紅白歌合戦」に出場(第4回から第6回まで)して人気を博すことに。ちなみに53年の第4回では「国境の南」、54年は「セントルイス・ブルース・マンボ」、55年は「インディアン・ラブコール」をそれぞれ披露している。演奏だけでなく、歌手としても魅惑のヴォイスを兼ね備えた一流のミュージシャンであったのだ。
音楽を創作する側へと意識を変えたきっかけとなったのは、57年に海外の舞踊団の公演を観たことだったという。自国の芸術を見せることに誇りを持つ彼らのステージにより、外来音楽の演奏よりも日本の曲を創作することに重要性を見出した浜口はバンドを解散、作詞家兼作曲家へと転じて新たな活動を始めることにした。作家のレコード会社専属制度が当たり前だった時代、まずはコロムビアに籍を置いて楽曲提供を行ない、その中から、59年のスリー・キャッツ「黄色いさくらんぼ」や、守屋浩「僕は泣いちっち」がヒット。翌60年には守屋が歌った「有難や節」が大ヒットして、ヒットメーカーとしての地位を着実に築きあげてゆく。守屋はロカビリー・ブームが輩出した歌手ではあったが、浜口の提供する大衆向けの歌謡曲でスターとなった。
同じ頃には、中村八大や宮川泰といった、ジャズ・バンド出身の新進作曲家が台頭し始め、歌謡曲の世界に新しい波がもたらされた。浜口もやがてフリーとなり、次々と傑作を送り出すのである。作詞・作曲を共に手がけたものでは、65年の「愛して愛して愛しちゃったのよ」(田代美代子、和田弘とマヒナスターズ)、66年の「バラが咲いた」(マイク真木)、「夕陽が泣いている」(ザ・スパイダース)、「星のフラメンコ」(西郷輝彦)、67年の「夜霧よ今夜も有難う」(石原裕次郎)、「花と小父さん」(伊東きよ子、植木等ほか)、71年の「空に太陽がある限り」(にしきのあきら)、また作曲のみでも、66年の「恍惚のブルース」(青江三奈)、68年の「愛のさざなみ」(島倉千代子)などなど、枚挙に暇がない。島倉は87年に久々のビッグヒットとなった「人生いろいろ」も浜口の作曲で、縁の深い歌手のひとりである。当時の島倉は紅白歌合戦を卒業宣言していたものの、闘病中だった浜口のために紅白復帰を決意して再びステージに立ち、「人生いろいろ」を歌ったというエピソードがある。
ハマクラ作品の魅力はなんといっても、その哀愁を帯びたメロディと繊細な言葉遣いにある。タイトルからも見受けられる様に、一見ユーモアに満ちた作風でありながら、その根底には徹底してペーソスが流れており、センチメンタルな気分にさせられる作品ばかりなのだ。例えば、伊東きよ子の歌でヒットした「花と小父さん」は、そもそも植木等のために書かれた作品で、植木はアルバム用にレコーディングしている。もちろん伊東の歌もすこぶる良いのだが、さらに植木ヴァージョンを聴くと涙が出そうになる程訴えかけてくるものがある。浜口の優しい心根が絶妙に表現された傑作である。植木自身もこの歌は気に入っていたらしく、だいぶ後にも再録音しており、その時は相手役として裕木奈江が参加した。また、後にサザンオールスターズの原由子がリメイクした「愛して愛して愛しちゃったのよ」は、田代美代子、和田弘とマヒナスターズの歌で65年に大ヒットしたが、実はその前年にコロムビアの成田綾子という歌手が「愛しちゃったの」というタイトルでリリースしていた経緯がある。彼女は67年にクラウンから、やはりハマクラ作品の「あなただけなのよ」でリベンジを図ったが、惜しくもヒットには至らなかった。この歌は浜口自身の歌唱ヴァージョンも抜群にいい。現在も『浜口庫之助 自作自演集』などのCDで聴くことが出来る自身の歌唱は不思議な味わいに満ちており、未聴の方には是非ともお薦めしたい。「黄色いさくらんぼ」「バラが咲いた」「粋な別れ」・・・どれもみな素晴らしいフィーリングである。2017年には生誕100年を迎える浜口庫之助のメロディは、今後もますます聴かれる機会が増えることだろう。
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