2018年07月27日
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2018年07月27日
「熟女をなめんなよ〜‼」
寺田恵子の叫びが、ライヴ会場を飲み込む瞬間は、ぞくぞくするほどスリリングだ。
ステージの上に立っているのは、華奢で繊細で、贅肉などまったくないプロポーションの女性。その背筋はすっきりと伸び、その動きはダイナミックでパワフルそのもの。
信じられるだろうか。どこから見ても若々しい彼女が、7月27日に55歳という年齢を迎えるということを。
初めて彼女のことを知ったのは、かれこれ30数年まえのこと。まだデビューも決まっていなかったSHOW-YAのヴォーカリストとして、ステージに立っていた彼女を観た。
もともと、歌謡曲が好きだったという彼女だが、実姉の持っていたカルメン・マキ&OZのアルバムを聴いて、小学生のころからカルメン・マキのヴォーカルに憧れていたという。だから、高校時代にバンドを始めたときには、カルメン・マキの曲しかやりたくなかったという。
しかし、誘われて参加したSHOW-YAは、女性だけのバンドでありながら、男性のバンド以上のクォリティとオリジナリティを追求していたことから、彼女自身のスタイルを模索していくことになる。
82年、ヤマハが主催していたライト・ミュージック・コンテストのレディース部門で優勝したSHOW-YAは、メンバー・チェンジを行って、現在のメンバーが揃うことになった。
85年8月に、シングル「素敵にダンシング」でメジャー・デビューを飾ったSHOW-YAだったが、シングルはアイドル的な要素を含んだポップなイメージを、9月にリリースされたデビュー・アルバムではハード・ロックやプログレッシヴ・ロックの要素を散りばめた多彩なサウンドを打ち出していたのが印象的だった。その翌年には、プリンセス・プリンセスもデビュー。
女性らしい感性で心の揺れを歌ったプリプリと、テクニック重視のハード・ロック志向を打ち出したSHOW-YAという、対照的なバンドが牽引車となって、現在の女性バンド・ブームの下地を作っていったのだ。
87年から日比谷野外音楽堂で開催されてきた(開催されない年もあった)「NAON no YAON」は、ステージに上がるのは、スタッフまで全員女性というSHOW-YAの主催イベントだが、女性ミュージシャンだけでなく、アイドルから女子プロレスラーまで、幅広いジャンルの女性が参加することで、女性ミュージシャンの存在を幅広い層に訴えるきっかけにもなった。
「じつは、もういやになっちゃって、逃げちゃったんだ」
91年2月、寺田恵子はSHOW-YAを離れる。その2年ほどまえから、SHOW-YAはロスアンジェルスでライヴを行ない、現地で好評だったことから、本格的なアメリカでのデビューも視野に入れていた時期でもあった。
寺田恵子の代わりに、新しくヴォーカリストを迎えたSHOW-YAは、志向錯誤をくり返したうえで、98年9月にいったん解散している。一方、1年半もの充電期間を経た寺田恵子は呪縛から解き放たれたかのように、ソロ・シンガーとして精力的な活動を行なっていくのだった。
ひと晩で100曲を歌うという、まるで空手の百人組み手のようなライヴを行なったり、憧れていたカルメン・マキの楽曲だけをカヴァーしたアルバムをリリースしたりと、その時代の寺田恵子の音楽活動はアグレッシヴなものだった。
「バカだからさ、自分でやってみて、痛い目を見ないとわからないのよ」と、そんな自分のことを、彼女はよく笑っていたものだ。
時代が21世紀に変わるころ、それまで楽器を持ったことのなかった寺田恵子がアコースティック・ギターを手にするようになっていた。そして、ギター1本を持っただけで、全国各地に身軽に出かけていく。彼女が歌う会場も、ライヴ・ハウスだけでなく、郊外の大型ショッピング・センターの催事場など、歌える場所ならば、どこへでも出かけていったという。
そして、いつの間にか、彼女の横には、カホーンを叩くSHOW-YAのドラマー、角田美喜の姿があった。一度はたもとを分かった彼女たちが、ゆっくりとその関係を修復しようとしていたのだ。
メンバーたちにとって自分たちから逃げ出した寺田恵子を、簡単に許せるような心境ではなかったことは確かだが、根気よくメンバーたちとコンタクトを取り続けていった彼女の熱意に、誰もがだんだんと気持ちを和らげていったように思う。
2005年10月、SHOW-YAはNHKホールで再結成ライヴを開催。再びメンバー5人がひとつになって、バンド・サウンドを作り出していくことになった。
彼女たちにあったのは、自分たちの思うバンドの形を具体的に示したいという強い意志だったように感じられた。そのためならば、一度は別れたメンバーでも、複雑な感情を乗り越えて、ふたたび結びつくことができたのだった。
その結果、再結成からいままでの間に、SHOW-YAはバンドを目指すすべての女性たちの目標とされる存在となり、寺田恵子は後輩の女性ミュージシャンたちから“姐さん”と慕われる存在になったのだ。
少女はいつの間にか、自分のことを熟女と呼ぶようになったけれど、どんなものにでも正面からぶつかっていく情熱と、あきらめることなくチャレンジし続けるその性格は、まったく変わってはいなかった。
寺田恵子は熟女の時代を力強く泳ぎ続けている。いまも、そしてこれからも……。
≪著者略歴≫
大野祥之(おおの・よしゆき):1955年4月1日、東京神田で生まれる。1971年、初来日したレッド・ツェッペリンに、16歳でインタビューを行う。21歳から、本格的な執筆活動に入り、「ミュージックライフ」「音楽専科」「ロッキンf」「ヤングギター」「ドール」などの音楽雑誌に執筆。80年代には、44マグナムを筆頭にジャパニーズ・ヘヴィ・メタルのバンドをプロデュースするなど、活動の幅を広げた。2000年代に入ってからは、母親の介護を8年間経験。現在でも、ライヴ・シーンで若くて元気なバンドたちを発掘している。
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