2018年07月30日
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2018年07月30日
ポール・アンカが7月30日に77歳の誕生日を迎える。日本流にいえば喜寿という事になる。
1957年にわずか16歳で自作の「ダイアナ」でセンセーショナルなデビューを飾ったポール・アンカは“天才少年”ともてはやされた。
今やフランク・シナトラの「マイ・ウエイ」の英語の詞の作詞者としてしか知らない人がいるかもしれないが、ポール・アンカには単なるヒット・シンガーでは済まされない素晴らしい幾つもの顔を持っているのである。
シンガーソングライターが当たり前になっている今では考えられない事だが、1950年代からビートルズの登場する1960年代初めころまでは、アメリカのヒット・チャートに登場してくるアーティストの殆どがプロの作詞・作曲家の作った曲を歌っていたのに対してポール・アンカは珍しく自分で作詞・作曲を行っていた。ポールと同じころにデビューして圧倒的な人気を博していたが、飛行機事故で悲劇的な最後を遂げた、バディー・ホリーや、ポールの少し後に登場してきたニール・セダカなどが、その他の数少ない当時活躍していた自作自演アーティストとして挙げられる。
しかし、ポール・アンカが他のアーティストと決定的に違っていたことが一つある。それは、バディーもニールも自分の曲の著作権を既成の音楽出版社に預けていたのに対して、自分の書いた作品は自分の音楽出版社で管理する、というポリシーをポールは持っていたことである。そうすれば、作家の取り分だけでなく、音楽出版社の取り分も自分のものに出来るのである。最初の「ダイアナ」こそ、レコードを発売したABCパラマウント傘下のPAMCOという音楽出版社に権利を預けたが、いくつかヒットが続くとすぐに自分の音楽出版社SPANKAMUSIC(Paul ANKA'S のSを一番最初に持ってきた名前)を設立して、すぐに取り戻している。つまり、ポール・アンカはアメリカのアーティストで音楽著作権の重要性をいち早く気付いていた優れたビジネスマンと、いうことが出来る。
優れたビジネスマンという評価の他にポールが良く知られているのが、カナダの音楽業界への貢献ぶりだ。
中でも一番有名で、その後に大きな影響を与えたと思われるのは、今やプロデューサー、ライター、レコードレーベル・ヘッドなど多彩な活躍をしているカナダ生まれのデビッド・フォスターをアメリカの音楽業界に紹介したのがポール・アンカである、という事だ。ポールはデビッドがアメリカのグリーンカードを取る手助けまでしている。その後も折に触れ、ポールはカナダのアーティストのアメリカ進出に手を貸している。今や押しも押されもしないジャズ・シンガーになっているマイケル・ブーブレを世に送り出したのもポール・アンカとデビッド・フォスターのふたりだ。
このビジネスマンとしての面とカナダのアーティストを助けるというもう一つの面が、見事にマッチしたのが、今アメリカのチャートで大ヒットをしているカナダ生まれのラッパー、ドレイクの最新アルバム「Scorpion」に収録されている「Don’t Matter to Me」だ。実は、この曲はポール・アンカとマイケル・ジャクソンが1980年代初期にレコーディングした何曲(既に「This Is It」と「Love Never Felt So Good」の2曲がこの時のセッションから発売されている)からの1曲、「It Don’t Matter to Me」をベースにしたもので、今年の2月に、ドレイクが”何か一緒に出来ないでしょうか?”とカナダの大先輩に問いかけたことがきっかけとなり、ポールが“それなら、こういうものがあるのだが”とこの録音を聞かせたことが始まりだったという。
楽曲の著作権は勿論の事、レコーディングしたマスターテープの権利も自分で所有していて、その上にカナダのアーティストの為ならば、という気持ちを持っているポール・アンカの存在がなかったら、今回のコラボレーションは実現しなかったに違いない。アメリカの音楽業界誌も、ポール・アンカの決断を高く評価している。勿論、その裏にはビジネスとして今、超人気のドレイクと組むメリットも十分考えたと思われるが…。
余談だが、14歳でデビューしたジャスティン・ビーバーのデビュー当時の写真がポール・アンカのデビュー当時の写真にそっくりなのは同じカナダのヤング・アイドルという事で、ジャスティンのマネージメントが意図したことなのかどうか気になるが、いずれにせよポール・アンカは紛れもなく今でもカナダ人にとっては大英雄なのである。
≪著者略歴≫
朝妻一郎(あさつま・いちろう):(株)フジパシフィックミュージック代表取締役会長、日本音楽出版社協会顧問(元会長)。音楽評論家、音楽プロデューサー。高校時代にポール・アンカのファンクラブ会長に就任。高崎一郎の知遇を得、アシスタントとしてニッポン放送で選曲や台本書きのアルバイトを務める。1963年より会社員生活の傍ら、レコード解説の執筆を始める。1966年パシフィック音楽出版(PMP、現フジパシフィックミュージック)に入社。契約を担当する一方、ディレクターとしてザ・フォーク・クルセダーズやジャックスのレコード制作を手掛ける。以来、大瀧詠一、山下達郎、サザンオールスターズ、オフコース等、数多くのアーティストに関わる。
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