2019年01月20日
スポンサーリンク
2019年01月20日
川村かおりの映像作品を発売することになったということで、久しぶりに彼女のビデオクリップをすべて見させて頂いた。1988年、17才でデビューしてから4年間の音楽映像である。
「原宿。長玉(注:望遠レンズのこと)。シンプル。」そう言い放った映像プロデューサーK氏によって「Sweet Little Boy」のビデオクリップは制作された。ちなみにこの曲のロシア語バージョンも後にクリップが制作されているのだが、モスクワの市街地で撮影され、原宿でのクリップと対をなすような映像になっている。どうやら「KAORI KAWAMURA 1」のエンディングロール用に制作したらしい。K氏ならではの実に心憎い演出だ。
デビュー曲「ZOO」の映像は、実はロンドンで行ったミックスダウンの合間にプロデューサーだった辻仁成氏が撮影した8ミリフィルムを小松隆志監督が編集した作品だ。
日本とロシアの血が流れている英国在住の女子高校生、という存在であったがゆえに、映像作品を制作するに当たっては、どうしても(?)日本、英国、ロシア(当時は旧ソビエト連邦)の3か国で撮影を行う、ということに大いなる意味とこだわりがあった。そんな強引な思いを胸に、火傷をするくらいの熱を持ってスタートした音楽・映像制作チームによる作品「KAORI KAWAMURA 1」は出来上がった。
MTVが米国で開局したのが1981年。その後マイケルジャクソンのスリラーやマドンナのライク・ア・バージンといったミュージック・ビデオの成功が、米音楽業界のプロモーションの在り方を決定的なものにした。こうした洋楽シーンの影響も受け、日本におけるミュージック・ビデオの発展は生放送の音楽番組が衰退した1980年代中頃から1990年代初頭以降、アーティストの音楽番組出演に代わるプロモーション手段の一つとして増えていくようになる。もっともポニーキャニオンではTHE ALFEE、チャゲ&飛鳥、チェッカーズといったヒットを出せるアーティストが中心だったが、それは当時のビデオ制作費が高額であり、宣伝費扱いであり、つまりは宣伝予算を潤沢に使えるアーティストでなければこうした予算が組めなかったからである。
やがて1993年、『第35回日本レコード大賞』に初めて「ミュージックビデオ賞」が登場した。社会的にミュージックビデオが認知された証しである。受賞したのはtrf「EZ DO DANCE」と米米クラブ「THE 8TH OF ACE」。(ただしこの賞が設置されていたのは、この年と翌1994年の『第36回日本レコード大賞』のみではあるのだが。)
閑話休題、話は川村かおりに戻る。そんな状況に先立ち、音楽作品とリンクした映像作品を発売するというのは、当時の新人アーティストとしては異例のことであった。なぜそれが実現できたのか?それは1980年代前半にポニーキャニオンが音楽映像制作の部署を設けたことで、プロモーションとビジネスを兼ねた戦略を実現することが出来たからだ。つまりビデオ制作費の扱いを宣伝費ではなく、パッケージ商品の制作費にしたのである。その影響は実に大きいもので、トピカルな出来事としては、当時大人気だった少年隊のレコードが現ワーナー・ミュージック・ジャパンだったにもかかわらず、その映像商品はなんとポニーキャニオンだという、異例の専属分割契約を獲得したことが挙げられるだろう。
そしてその後も彼女の歌旅は続く。日本はもちろんのこと、英国、ドイツ(旧西ドイツ)、スペイン、米国といった国々を渡り歩いた。(今思えば、そんな無茶無謀を面白がり、黙って認めてくれていた当時のポニーキャニオンという会社、上司の度量の大きさには頭が下がります。)
「(gonna be a)Hard Rain -激しい雨が降る-」では本当にずぶ濡れになったかおりの表情がとても素敵だし、建設中だった東京都庁が映る新宿の街に戦後の事件や闘争の映像を加えて編集した「金色のライオン」などは、映像作品としても実によくできていると思う。そしてもちろん、海外ロケによる作品も音楽とともにぜひとも堪能していただきたいと思う。叩き壊される半年前に撮影したベルリンの壁(「うそつきのロッカー」)、テロによって崩壊してしまったニューヨークのワールドトレードセンターの映像(「スーベニール」)など、近代史上稀に見る悲劇の舞台が映し出されている。それぞれの歌の世界観を映像で表現するための舞台として選んだのだが、その後の出来事は全く予想も出来ないことであった。地球の惑星記号をシンボルマークに使ってそんな時代を走った、彼女ならではの「引き」の強さを感じずにはいられない。
そんなこんなで彼女が歌った音楽を丁寧に映像化していった集大成がこの作品だ。そして1・2・3を通してみると、パンク・ロックを愛してやまなかった川村かおりの、美しさともいうべき「危うさ」と「はかなさ」を一貫して感じながら、その成長ぶりを確かに感じることが出来るのも映像作品ならではのことだ。
≪著者略歴≫
渡辺博(わたなべ・ひろし):音楽プロデューサー、尚美ミュージックカレッジ講師。ポニーキャニオン音楽制作部勤務時代には川村かおりのほかにThe Alfee、By Sexsual、加藤いづみ、高橋研、おニャン子クラブ、やまだかつてないWinkなどのヒットを手掛けた。近年では「あの頃、君を追いかけた」(2018)、「空母いぶき」(2019公開予定)など、映画の音楽プロデューサーを務めている。
「こんな天気じゃ店ヒマだから、飲みにおいで」電話の主はポニーキャニオンでデスクをやっていたT女史から。彼女の母上が切り盛りしていたその店は、中野ブロードウェイからすぐの路地裏にあった。その店で待...
1982年4月5日、坂本龍一&忌野清志郎「い・け・な・いルージュマジック」がオリコンのシングルチャートの1位を獲得した。当時筆者はロンドンレコードの新入社員として宣伝を担当。売上を伸ばしていた写...
1978年11月23日、NHK-FMにて放送開始された音楽番組『サウンドストリート』。その黄金時代といえば、83年から86年までの3年間だろう。佐野元春、坂本龍一、甲斐よしひろ、山下達郎、渋谷陽...
本日、3月13日は、佐野元春の誕生日。63歳になる。佐野元春は1980年3月21日にシングル「アンジェリーナ」(EPIC・ソニー)でデビュー。ソロ・アーティストとして、世に出たが、レコーディング...
1980年2月21日YMO『パブリック・プレッシャー/公的抑圧』(Alfa ALR-6033)が発売された。このアルバムは、YMOの3rdアルバム、そして初のライヴアルバムである。新曲を含まない...
初めてヒロシと話したのは大貫憲章さんに新宿のツバキハウスで紹介してもらった1982年とかだからもうかなり前になる。あの時代のロンドンのID やFACEといった雑誌に出てきたりするようなニューロマ...
1985年11月15日、レベッカの通算4作目のアルバム『REBECCAⅣ~Maybe Tomorrow』がオリコン・アルバム・チャートの1位を獲得した。レベッカにとっては初のアルバム1位獲得であ...
本日、8月7日は、「第3回全日本フォークジャンボリー」が47年前に開催された日である。“サブ・ステージで「人間なんて」を歌っていた吉田拓郎が観客をあおってメイン・ステージへなだれ込ませた”という...
「熟女をなめんなよ〜‼」寺田恵子の叫びが、ライヴ会場を飲み込む瞬間は、ぞくぞくするほどスリリングだ。ステージの上に立っているのは、華奢で繊細で、贅肉などまったくないプロポーションの女性。その背筋...
今日、6月6日は、高橋幸宏の誕生日だ。1952年、東京に生まれた。その存在が広く知られるようになったのは、サディスティック・ミカ・バンドのドラマーとしてだった。彼よりも技術に卓越した人はいるかも...
4月2日は忌野清志郎の誕生日。存命なら67歳になる。30年前、どんな気持ちで清志郎は37回目の誕生日を迎えていたのだろう。30年と1週間前、すなわち1988年3月25日にRCサクセションの19枚...
僕が松本孝弘というギタリストの存在を知ったのは1986年頃、渋谷の小さなライブハウスで見た、ベーシスト鳴瀬喜博が率いる “うるさくてゴメンねBAND” のステージだった。テクニカルであると同時に...
本日、2月20日はマーシーこと真島昌利の誕生日である。甲本ヒロトとともに、ザ・ブルーハーツ、ザ・ハイロウズ、そして現在のザ・クロマニヨンズのギタリスト&ヴォーカリストとして活動、ソングライティン...
2018年2月6日で52歳になる。52歳! まさか52歳になってもロックバンドのボーカリストをやっているとは想像もしなかった。だって、僕がロックを始めた少年の頃、50を越えたロックミュージシャン...
本日1月30日は、ニューロック期から横浜ロック・サーキットの主要人物のひとりとして活躍。70年代末のブレイク以降は、そのソウルフルなヴォーカルと“泣き”のギター・プレイで「和製エリック・クラプト...
本日は山下久美子の誕生日。シングル「バスルームから愛を込めて」(作詞・康珍化 作曲・亀井登志夫)でデビューしたのは1980年6月25日。大分県別府市に生まれ、大阪でしばらく歌修行をしたのちに上京...
1月23日は川村かおりの誕生日。生きていれば47歳。どんな女性に、母親に、アーティストになっていたのか想像してみるが、ふわっとしたまま形になって行かない。おそらく、記憶の中の彼女が十代のままだか...