2018年11月15日
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2018年11月15日
1985年11月15日、レベッカの通算4作目のアルバム『REBECCAⅣ~Maybe Tomorrow』がオリコン・アルバム・チャートの1位を獲得した。レベッカにとっては初のアルバム1位であり、ここで大ブレイクを果たした彼らは、80年代後半の音楽シーンを代表するロック・バンドとして活躍していく。
レベッカはその後レッド・ウォー リアーズで活躍する木暮武彦が結成したバンドで、ヴォーカルのNOKKOが82年2月に加入する前は男性ヴォーカルであった。NOKKOの加入は82年の2月。同年夏には木暮とNOKKOが全米デビューを目指しいきなり渡米したり、ソロ・デビューの打診があったNOKKOがバンドにこだわりこれを断るなど、幾多のメンバー・チェンジも含め様々な紆余曲折があった。結果、84年4月21日、「ウェラム・ボートクラブ 」でCBSソニーのFITZBEATレーベルからデビューを果たす。FITZBEATは83年に後藤次利が創設したレーベルで、ソニーの数あるレーベルの中でも、ロック色が強く、レベッカのほかには聖飢魔II、グラスバレー、宮原学らが所属していた(その後合併してキューン・ソニーとなる)。EPICソニーと並んで、ソニーが若い世代向けのロックを生み出していくのに欠かせないレーベルである。
レベッカのバンドスタイルが新しかったのは、ヴォーカルが女性(NOKKO)で、そのほかの演奏メンバーが男性というメンバー構成にある。まだこの時代、日本のロックシーンでこういったバンド編成は珍しく、成功した前例としてはサディスティック・ミカ・バンドぐらいであった。その後レベッカのブレイクによって、このスタイルのバンドが数多く世に現れる ようになったのである。
デビュー後も新宿ルイードなど全国のライブハウスを周るが、当初観客の反応は悪く、京都のライブハウスでは観客がたった4人という(バンドメンバーより少ない)経験もしている。各地のライブハウス出演や学園祭、フェスなどを回るうちに動員は増え始め、84年11月発売のセカンド・アルバム『NOTHING TO LOSE』を発売する頃には、東京のライブハウスではキャパの倍以上の観客を集めるようになった。85年1月の渋谷エッグマン公演では、同会場の動員記録を作るが、この月、木暮武彦は音楽の方向性の違いからレベッカを脱退、同時にドラムの小沼達也もバンドを抜ける。これを転機として、NOKKOのキュートなヴォーカルの魅力を前面に押し出し、曲調もハードなものからポップに変化していく。イメージ的には当時、人気絶頂だったマドンナのイメージを下敷きに、ちょうどマドンナのファッションやメイク、ヘアを真似た「ワナビーズ」と呼ばれるティーン少女たちの日本版といった雰囲気を持っていた。3枚目のシングル「ラブ・イズCASH」がマドンナの「マテリアル・ガール」をお手本にしていることでも、狙いは明確だ。
だが、マドンナのエピゴーネンを離れ、独自の世界を切り開き始めたのが、シングル4作目にあたる「フレンズ」だった。『REBECCAⅣ~Maybe Tomorrow』にも収録されているこの名曲は、日本人好みのマイナーのメロディーをもち、NOKKOも従来のハネた歌唱法から伸びのある歌い方に変え、ロックのビート感はそのままに、誰もが口ずさめる作品に仕上がっている。そして切ないメロディー・ラインと符号するように、ノスタルジックで誰もが共感できる歌詞が載せられ、ドラマ『ハーフポテトな俺たち』の主題歌に選ばれたこともあり、ふだんロックを聴かない層にも強く浸透し、オリコン・チャート3位の大ヒットを飛ばした。この曲によってレベッカは、初期の本格ロック志向や、和製マドンナ的イメージから脱却し、独自のガール・ポップ路線を敷くことになったのである。
「フレンズ」がヒットチャートを駆け抜けている同年11月1日に、アルバム4作目『REBECCAⅣ~Maybe Tomorrow』がリリースされる。作詞は基本的にNOKKOと、その後沢田知可子「会いたい」の大ヒットを飛ばす沢ちひろ。作曲はリーダーの土橋安騎夫がほぼ全曲を手がけている。アルバム各曲におけるディレイの長さ、シンセサイザーをベースにしたサウンドづくりは、さすがに80年代的なものを感じさせるものがあるが、ベースとドラムのリズム・セクションの強さ、さらにその上に乗るキーボードの音色とエモーショナルなギターの響き、そしてNOKKOの誰にも真似の出来ないヴォーカル・スタイルと、パーフェクトなアンサンブルが聴ける。マドンナやシンディ・ローパーの登場でにわかに活気づいたガール・ポップという世界的潮流を、日本において開拓したのがレベッカであり、この『REBECCAⅣ~Maybe Tomorrow』であったのだ。
歌詞の内容も、OLの生活感を描いた「ボトムライン」や、都会で暮らす女性のふとした孤独を歌う「Cotton Time」、ハッチャケた女の子を快活に表現した「76th Star」「ガールズ ブラボー!」など緩急自在のサウンドに対応する、普通の女の子の日常が描写されている。そして最後を飾る表題曲「Maybe Tomorrow」は、その後のライブでもトリで歌われることが多い、バンド屈指の名バラード。オリコン・チャート1位のみならず翌87年の年間チャートでも4位に食い込む大ヒット作となる。このアルバムのもつ、ロックのビート感覚とガーリーな世界の融合は、日本の音楽シーンを変えてしまうほどの衝撃があった。
過去3作のアルバムもチャート・インし、アルバム・リリース直後に始まったコンサートツアーには全国で多くのファンが殺到、大盛況をみせた。なかでも同年12月25日に渋谷公会堂で行われたステージは伝説的な内容と言われ、その後DVD発売されたほか、2018年3月にZepp Diver Cityと大阪Zepp Nambaでフィルム上映が行われた。また、85年1月のエッグマンで動員記録を作り、同年4月には渋谷ライブ・インで「酸欠ライブ」と呼ばれるほどの熱狂をみせ、その後渋谷公会堂、そして日本武道館、スタジアムツアーへとライブ動員を増やしていく。こういった「バンド出世双六」が誕生したのも、レベッカの成功が契機なのだ。
レベッカは91年2月に解散するが、その後幾度かのリユニオンを経て、2015年には大々的な再結成ライブが行われ、同年のNHK『紅白歌合戦』にも出場。往年のファンのみならず、関係各方面からも熱いエールが送られた。80年代後半にティーンだった少年少女たちの思いを支えたレベッカは、大人になった彼らファンとともに、再びシーンの中心に返り咲いたのである。
レベッカ『REBECCA IV~Maybe Tomorrow~』「ラブ・イズCASH」「フレンズ」 写真提供:ソニー・ミュージックダイレクト
≪著者略歴≫
馬飼野元宏(まかいの・もとひろ):音楽ライター。月刊誌「映画秘宝」編集部に所属。主な守備範囲は歌謡曲と70~80年代邦楽全般。監修書に『日本のフォーク完全読本』、『昭和歌謡ポップス・アルバム・ガイド1959-1979』ほか共著多数。近著に『昭和歌謡職業作曲家ガイド』(シンコーミュージック)、構成を担当した『ヒット曲の料理人 編曲家・萩田光雄の時代』(リットー・ミュージック)がある。
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