2015年07月13日
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2015年07月13日
長谷川きよしが生まれたのは、66年前の今日、1949年7月13日である。「別れのサンバ」で衝撃的なデビューを果たしたのは69年、デビューした当時は“和製ホセ・フェリシアーノ”などとも呼ばれた。長谷川とフェリシアーノの二人は年齢も近く、盲目というハンデを微塵も感じさせない卓越したギター・テクニック、そして、誰の心もゆさぶる歌唱力など、確かに多くの共通項を持っていた。
長谷川きよしは2歳の時に失明し、12歳でギターを始め、クラシック・ギター界の巨匠・小原佑公氏に師事した。67年に石井好子が主催するシャンソン・コンクールに出場し入賞を果たすのだが、これが歌い始めるきっかけとなり、日本のシャンソンの中心であった銀巴里などでライヴを行うようになる。この意味では長谷川のルーツはシャンソンになるのだが、アルバムではジャズのスタンダード、ボサ・ノヴァ、サンバ、カンツォーネ、フレンチ・ポップスなど幅広くとりあげている。また、渡辺貞夫や日野皓正など、ジャズ・ミュージシャンと共演することも多かった。
デビュー曲の「別れのサンバ」に次いで彼の名前を有名にしたのは、72年の「黒の舟唄」だ。この曲は、直木賞作家であった野坂昭如が71年にリリースしたシングル「マリリン・モンロー・ノーリターン」のB面曲なのだが、長谷川きよしの力強い歌とギターによって、リヴァイヴァル・ヒットとなっていった。また、74年には加藤登紀子とのデュエット曲「灰色の瞳」がヒットしたが、この曲はアルゼンチン出身のケーナ奏者ウニャ・ラモスが作曲した「Aquellos Ojos Grises」に日本語の歌詞をのせたものだ。このヒットを契機に、日本でもフォルクローレのブームが沸き起こった。
その後も長谷川きよしは、様々なコラボレートを繰り返しながら、着実なペースでアルバムを発表していく。そんな長谷川のディスカヴァリーが起こったのは95年のこと。ムーンライダーズがカヴァーばかりを集めたアルバム『Beautiful Young Generation HIGH SCHOOL BASEMENT 1』の中で、坂本九の「一人ぼっちの二人」などとともに、長谷川きよしの「卒業」を取り上げたのだ。これがきっかけとなり若い層でも長谷川の名前がとりざたされるようになり、ソフト・ロック/ソフトサウンディングの先駆者として再評価された。
2015年4月には、東日本大震災以降歌い続けている「心震える時」を中心に、「別れのサンバ」や「黒の舟唄」などの名曲を再録音した『心震える時』を発表した。アルバムの後半には、中山千夏と共作した「組曲ふるいみらい」が収録されている。まさに今こそが最高の円熟期であり、長谷川きよしの歌声はなおも輝きを失うことはないのだ。
長谷川きよし(本名長谷川清志)の名前を知ったのは森山良子からだった。69年春に偶々彼女と打ち合わせでお茶をした時に「昨日ギターの凄く巧い眼の不自由な新人の男の子とイベントで一緒になったの」と云う...
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