2017年01月19日
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2017年01月19日
“激情型シャウター”として知られ、60年代のディープ・ソウルを代表するシンガーのひとりだったウィルソン・ピケットは、そのヴォーカル・スタイルを地で行くような、かなり豪傑な男だった。
1941年3月18日、アラバマ州に生まれた南部人であるピケットは、幼い頃からゴスペルに親しみながら育った。50年代後半に家族でデトロイトに移り住むと、ヴァイオリネアーズというゴスペル・グループに参加し、その歌唱スタイルに磨きをかけてゆく。具体的には、センセーショナル・ナイチンゲイルズの名シンガー、ジュリアス・チークスのシャウト唱法に影響を受けていたそうで、彼がこの時期に確立した歌い方は、音楽がR&Bやソウルへと変わっても、まったくブレることはなかった。
61年からピケットはファルコンズというR&Bグループに加入。62年には、自ら書きリードを取った「アイ・ファウンド・ア・ラヴ」がR&Bチャート6位の大ヒットとなり、翌63年にグループが解散すると、満を持してソロ活動をスタート。64年にはアトランティック・レーベルと契約をかわし、いよいよピケットの黄金期が幕を開ける。
当初はニューヨークにあるアトランティックのスタジオで楽曲制作をしていたピケットだったが、これでは本来のゴスペル的な持ち味が発揮できないと判断したプロデューサーのジェリー・ウェクスラーは、ピケットをメンフィスに連れてゆき、スタックス・スタジオでレコーディングさせる。これが彼の運命を決定づけた。そのセッションで生まれた曲こそが、名曲「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」(65年)であり、南部特有のバックビートを効かせたサウンドをバックに、ピケットならではのゴスペル唱法が解き放たれた瞬間だった。この曲ではじめてR&Bチャートのトップに立つと、続く「634-5789」(66年)ではそれ以上のセールスを叩き出す。
しかし、ウェクスラーとアトランティックは、これで満足しなかった。次のレコーディング場所に選んだのは、同じ南部でもアラバマ州マッスル・ショールズに所在し、白人プロデューサーのリック・ホールが運営するフェイム・レコーディング・スタジオ。アトランティックはこのスタジオと新たに契約したばかりで、ここからサザン・ソウルのヒット曲を全米に送り込もうと目論んでいた。66年、ウェクスラーとピケットはこのスタジオを訪れ、彼にとって最大のヒットとなる「ダンス天国」を生み出したが、リック・ホール以下、スタッフやミュージシャンが全員白人であることに驚いたピケットは、“こんな場所でオレのソウルが表現できるのかい?”と、最初は半信半疑だったという。結果、その後も彼はこのスタジオで「ムスタング・サリー」(66年)や「ファンキー・ブロードウェイ」(67年)といった傑作をレコーディングし、ピケットのキャリアはピークを極めることになる。
70年代初頭には、当時隆盛を誇っていたフィラデルフィアに赴き、ケニー・ギャンブル&レオン・ハフと組んでアルバム『イン・フィラデルフィア』をヒットさせるなど、その後もキャリアを積んでいったピケットだったが、60年代にスタックスやフェイムといった南部のスタジオでレコーディングした作品に匹敵するような輝きを得ることはできなかった。
そして、2006年1月19日、バージニア州の病院で心臓発作のため64歳で死去したピケット。ローリング・ストーン誌が選ぶ史上最も偉大な100人のシンガーの68位に選出され、91年にはロックの殿堂入りも果たした彼のパワフルなシャウトは、赤と黒でデザインされたアトランティックのシングル盤をターンテーブルにのっけて針を落とすだけで、まるで目の前で汗を滴らせながら歌っているような臨場感を持って、我々リスナーの耳に飛び込んでくる。その瞬間だけ、ピケットの魂(ソウル)は生きかえるのだ。
≪著者略歴≫
木村ユタカ(きむら・ゆたか):音楽ライター。レコード店のバイヤーを経てフリーに。オールディーズ・ポップスを中心に、音楽誌やCDのライナーに寄稿。著書に『ジャパニーズ・シティ・ポップ』『ナイアガラに愛をこめて』『俺たちの1000枚』など。ブログ「木村ユタカのOldies日和」もマイペース更新中。
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