2015年12月20日
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2015年12月20日
1969年、フィリップス・レコードと、その所属邦人アーティストたちの原盤制作を手がけていた音楽出版社シンコー・ミュージックは、カントリー・ミュージックの聖地ナッシュビルで森山良子と現地ミュージシャンによる共演アルバム『森山良子イン・ナッシュビル』を企画。69年9月末から1週間に亘ってナッシュビルでレコーディング・セッションを行なう。そして、このプロジェクトの“副産物”として浮上したのが、同じテネシー州の音楽都市メンフィスで現地ミュージシャンを起用して制作するショーケン(萩原健一)の初ソロ・アルバムの企画だった。
当時R&Bが静かなブームとなっていた日本の音楽ファンの間で、オーティス・レディングやサム&デイヴなど「メンフィス・サウンド(スタックス・サウンド)」の名盤の数々を生みだしたメンフィスは黒人音楽の聖地として認知されていた。デビュー以来、黒っぽいイメージとブルージーなサウンドで定評のあるテンプターズ(ショーケン)には打ってつけのレコーディング場所であり、ヴォーカル以外の全てを現地ミュージシャンで固め、メンフィス録音を最大限にアピールするのならば、テンプターズよりもショーケンのソロ作品の方が好都合だったのだろう。
さらに、ライバルであるタイガースの沢田研二のソロ・アルバム制作がほぼ同時期にスタートしていたことも見逃せない。沢田のソロ・プロジェクトに作曲家&
さっそく、村井邦彦、筒美京平、中村八大といったヒット・メイカーたちの他、井上孝之(堯之)、かまやつひろし、大野克夫などスパイダースの面々、テンプターズの松崎由治が書き下ろした作品に、シンコー・ミュージックが契約していた米国の音楽出版社の管理楽曲2曲を加えた計12曲が用意され、ショーケンのメンフィス録音プロジェクトはスタート。まずテンプターズの5人はロスアンジェルスへ飛び、数日休暇を楽しんだ後にショーケンと松崎はメンフィスへ。残りのメンバーたちはそのままLAに滞在した。長らく骨休みもできなかったテンプターズの慰労も兼ねた渡米だったのである。
69年10月5日にナッシュビルから空路でメンフィス入りした日本側スタッフは、先入りしていたショーケンたちと合流。翌日からサウンズ・オブ・メンフィス・スタジオに、ウィルソン・ピケットやアレサ・フランクリン、デラニー&ボニー等のバッキングで知られるスタジオ・ミュージシャン・チーム「ディキシー・フライヤーズ」と、スタックス・サウンドを裏から支えたホーン・セクション「メンフィス・ホーンズ」の面々という、当時アメリカ南部で考えうる最高のミュージシャンたちが集められてレコーディング・セッションがスタートした。
ディキシー・フライヤーズ、メンフィス・ホーンズによる基本的なリズム・トラックのレコーディングは10月9日まで行なわれ、その後の3日間でヴォーカル録り、松崎のギター録音(「空白のブルース」)、トラック・ダウンを終了。10月13日、ショーケン&松崎とスタッフは帰国の途に着いている。
11月25日、先行シングル・カットとして「エブリバディ・ニーズ・サムバディ」が「君のいない世界」とのカップリングでリリース。ジャケットにはショーケンの写真だけが用いられ「唄・萩原健一」と書かれているが、何故か「ザ・テンプターズ」の名前も小さく併記され、「ザ・テンプターズがメンフィスに乗り込んでレコーディング!」というキャッチコピーが付けられていた。
メンバーのソロ発表=グループの解散と受け取られがちだった当時のファン心理を考慮し、大々的にソロ作品と謳うことに躊躇したのだろうか? そんなどっちつかずの姿勢が裏目に出てか、本場のメンフィス・サウンドに仕上がったグルーヴ感あふれる力作にもかかわらず、セールス的には振るわず、オリコン100位内にランクされたテンプターズの歴代シングルの中で最下位の83位止まりであった。
そして、今から46年前の今日1969年12月20日、いよいよアルバム本体が『ザ・テンプターズ・イン・メンフィス』のタイトルで、テンプターズ通算4作目のアルバムとしてリリースされる。日本人アーティストとして初のメンフィス録音ということで音楽雑誌などでの露出も多かったが、完成度の高い作品にもかかわらずセールス的には振るわなかった (オリコン36位)。アルバムと同時に2枚目のシングル・カットとして「愛の終り」(B面は「青春の叫び」)がリリースされているが、オリコン100位内にも入っていない。すでにGSブームが終焉を迎え、流石のテンプターズも時代の趨勢に抗うことはできなかったこともあるが、やはりショーケンのソロ・アルバムということを濁してしまったことも大きな敗因なのではないだろうか。
『イン・メンフィス』より15日早くリリースされた沢田研二の初ソロ・アルバム『ジュリー』はオリコン2位まで上っている。もし『ショーケン・イン・メンフィス』のタイトルで、当初の目論みどおり100%ショーケンの初ソロ・アルバムと明確に打ち出していたら、ジュリーVSショーケンの頂上対決はマスコミの恰好の話題となり、セールスも違ったはずだ。結局、このアルバムが、その豪華なバッキングの面子と強力な作家陣によって注目を集め、レア・グルーヴからソフト・ロックまで粒揃いの作品が収録された名盤として正当な評価を受けるには、発売からさらに20年近くの歳月を要したのである。
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