2018年09月11日
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2018年09月11日
人気TV番組『アンディ・ウィリアムス・ショー』を通じて注目されたオズモンド・ブラザーズ/オズモンズでの活躍によってキッズ・アイドル・スター的な存在となったダニー・オズモンドが、ソロ歌手としても放った大ヒットが「ゴー・アウェイ・リトル・ガール」である。ダニーがこの曲を取り上げた背景には、オズモンズのプロデュースを手がけていたリック・ホールの存在があった。ホールはアルバム『つづれおり』(71年6月から14週にわたり全米No.1を記録していた)によって時代の潮流を生み出す才能として輝きだしたキャロル・キングを改めて評価し、60年代に夫ジェリー・ゴフィンとのチームで数多くを当てた女流作家が書き愛されたオールディーズの佳曲を選んだのであろう。
「ゴー・アウェイ・リトル・ガール」が最初に人々のところに届いたのは、そのおよそ9年前、1962年のこと。出版社アルドン・ミュージックの専属作家だったキング=ゴフィンによって書かれ、「さよならベイビー」に続くシングルとしてボビー・ヴィーのヴァージョンが62年3月に発売されている。アルドンのドン・カーシュナーはむしろ、スティーヴ・ローレンスに向いていると感じた。その読み通り、50年代からダニー・ケイやジュリー・ガーランド、ジュリー・アンドリュースらの数々のTVショーに、ときに奥方イーディ・ゴーメと共に出演し幅広い人気を持っていたローレンスのキャラクターと最高の相性を示し、彼の盤が63年1月に全米第1位を記録する(邦題「かなわぬ恋」)。他にもこの曲は、デル・シャノンやボビー・ライデル、レターメン、フリートウッズ、ディオン、ボビー・ゴールズボロ、ボビー・ヴィントン、ジョニー・マティスら多くが歌っており、楽曲として普遍の支持を得ていたのがわかる。中でもハプニングスによるカヴァーは66年に全米第12位という2度目のHOT 100 チャート・イン・ヒットとなった。そして3度目が、ダニーである。
日本でオズモンズのイメージが決定づけられたのは、家族で70年から4年にわたって出演した乳酸菌飲料カルピスのTV-CMによってであろう。とりわけ末っ子ジミーの愛くるしい笑顔は、我が国に外国人の小さな子供の無条件なかわいさを、強く刷り込んだかもしれない。一方でまだ幼すぎたジミー加入前に、本国においてオズモンズの最年少であり、ライバルとされたザ・ジャクソン・ファイブにおけるマイケルのポジションにあったのは、ダニーだったはずだ。そんなダニーが歌ったからこそ、「ゴー・アウェイ・リトル・ガール」には、それまでのヴァージョンとは異なる意味が生まれたように思える。スティーヴ・ローレンス版と何が違うのか。
ローレンスが発売したとき、彼は27歳。一方ダニーは13歳でこれを歌った。曲の中の”little girl”は小柄な女の子ではなく、ダニーよりも小さな女の子に置き換えられることから、ここで描かれたのは幼く淡い初恋の情景であり、現実に男の子から少年(この境界線がまた実に微妙)へと成長しつつあるダニーが歌うことで、さらにリアリティーが増したのではないだろうか。今ダニー版を耳にしても、まだ変声期を迎えていない高い歌声は、歌詞の内容とあいまってたまらなくいじらしく、胸を締め付けるものを感じさせる。男の子だったダニーの歌声は72年の、ポール・アンカ作品を取り上げた「パピー・ラヴ」あたりまで踏襲され、ソニー・ジェームスで知られる「ヤング・ラヴ」を歌った73年には、すっかり大人びていたのが思い出される。ダニー自身に流れる時の経過も、ヒット曲の中で綴られていたわけだ。
閑話休題。ダニー・オズモンドの「ゴー・アウェイ・リトル・ガール」は、オズモンズの「ワン・バッド・アップル」が王座に輝いてから7ヶ月後、1971年9月11日付で見事全米No.1に輝いた。アメリカのシングル・チャート=HOT 100の歴史において、同一曲が異なるヴァージョンで第1位となった最初のケースとしても記録される。ちょっと興味深いのは、次にこれが達成されるのが、リトル・エヴァのヒットをカヴァーしたグランド・ファンク・レイルロードの「ロコモーション」によってであること(74年)。そう、こちらもキャロル・キングとジェリー・ゴフィンが書いた曲だった。
≪著者略歴≫
矢口清治( やぐち・きよはる):ディスク・ジョッキー。1959年群馬生まれ。78年『全米トップ40』への出演をきっかけにラジオ業界入り。これまで『Music Today』、『GOOD MORNING YOKOHAMA』、『MUSIC GUMBO』、『ミュージック・プラザ』、『全米トップ40 THE 80'S』などを担当。またCD『僕たちの洋楽ヒット』の監修などを行なっている。
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