2017年01月18日
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2017年01月18日
「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」(与謝野晶子)
「人をまつ身はつらいもの またれてあるはなほつらし されどまたれもまちもせず ひとりある身はなんとせう」(竹久夢二)
小椋佳、1月18日生まれ、73歳。いまでもこの“うた”は口をついて出る。
小椋佳の人生を現代の音楽シーンに入れるのは無理がある。どちらかと言うと、歌人、詩人的な――むしろ作家的な人だ。
“時代の音”が歌人的表現にくっついたのであり、小椋独特の曲調の“話すように歌う”のはそのせいである。3時間で1曲作る――これは楽器を必要としない、詩人や歌人のメソッドだ。いままでに校歌や社歌を含めると都合2000曲は発表されているというが、これは曲を作っているというより、「うた」を「詠ん」でいるに近い。事実彼は日記をつけ、読むように曲を作ったと言う(ちなみに彼は歌い上げる演歌が大嫌いで、美空ひばりへの提供曲『愛燦燦』の折、こぶしを利かせた歌い方に注文をつけている)。
先に歌人を挙げたが、父親の血脈(琵琶の師範)を除けば、いちばん影響されたのは、おそらく「マッチ擦るつかの間海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」の寺山修司である。今もこの歌を暗誦する。
小椋は、東大法学部4年時、ラジオ局で寺山を“出待ち”して直談判して、後日そのサロンに入る。そこで即興の曲作りなどを手伝う。第一勧銀に入行するも、寺山からアングラレコードの録音に駆り出され、3曲歌ったのがLP『初恋地獄篇』である。ちなみに作曲は和田誠、ジャケット撮影が篠山紀信、寺山の才覚に呼ばれた当時気鋭の面々である。
このLPをたまたま聴き、銀座の喫茶店に呼び出したのが、レコード会社ポリドールのディレクター多賀英典であった。のちにキティ・レコードを立ち上げた知る人ぞ知るフィクサーである。陽水、清志郎、安全地帯、また『セーラー服と機関銃』『うる星やつら』など音楽・映画シーンなどを操った才人である。
小椋の声に導かれた多賀だったが、遭った瞬間アチャと思った。(これは歌手の容姿ではない、しかも銀行員かよ)と。意気投合したのに多賀は「俺はこの声質とピュアな気持ちを世に出したい」の思いで会社の猛反対にあいながら決行。そこで、甘いマスクの岡田裕介(東映社長・岡田茂の子息、後に東映社長)のイメージ写真でジャケットを制作、ヒットさせる。以来しばらくシングル、LPとも岡田がカバージャケットであった。
本当の姿を現す(笑)のが、1976年11月11日、初のNHKホールでのライブ放送、NHK特集『小椋佳の世界』の時で、すでに小椋32歳である。この時もまだ、銀行マンの姿、背広を着て歌ったのだ。視聴率は31.2%。その、模様はアルバム『遠ざかる風景』に。これも大ヒットした。
多賀とのエピソードはこと欠かないが、銀行マンといっても、さすがに頭がキレる、大男で馬力もある。いまでいうM&A先駆けの部門。アメリカ赴任中に録音&徹マン、まわりのスタッフがバテて寝ている間に早朝出勤して行ったという。「彼は頭取になりたかったんだと思うよ」(多賀)本人はいまでも肯定も否定もしないが、“あつき血汐”がたぎっていたのは疑いない。(事実「偉大な先輩」という教え子が、女性初の大手バンク現執行役員である)。
昨年、小椋佳の功績の“検証”と“顕彰”をしようと全集とムックを作った。先に音楽シーンでは括れないとしたが、まさに歌謡界、CM界、映画界などに大きな影響と足跡を残したことが翻ってわかる。あらためて聴かれては如何か。
古希70歳で、もう現役を終えたとして“生前葬コンサート”なるものを記念のNHKホールで4日間、100曲を披露した。しかし現在でもまだ、曲依頼が各界(市歌や校歌を含めて)からあるというから凄い。
ちなみに、多賀英典が手がけた井上陽水のアルバム『氷の世界』と小椋佳の『彷徨(さまよい)』が日本のLPプレス枚数のワン、ツーである。その『氷の世界』の中の『白い一日』の作詞が小椋佳である。この青春の名抒情詩を陽水は言う「あの曲は人気ありますよね。なぜだかわからないんですけれど(笑い)」。
言葉を貴ぶ“作家”はインタビューでこう言った。
「もう一度、言語の復権を果たした日本社会をみてみたいなあ」
≪著者略歴≫
尾崎裕雄(おざき・やすお)::編集者『ポップティーン』『日刊アスカ』『P!style 』『月刊ランティエ』などで編集長を務め、昨年、小椋佳の大全集(CD+ムック)を編集。現在SME所属。
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