2017年02月13日
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2017年02月13日
コメディアンとして多くの映画や舞台で活躍したほか、若き頃はジャズ・ドラマーとして、後年は社会派ドラマや時代劇など俳優としても一流の仕事を遺したフランキー堺が67歳の若さでこの世を去ってから、早20年以上が経つ。森繁久彌、伴淳三郎らと共に主演を務めた喜劇「駅前」シリーズや、川島雄三監督の傑作『幕末太陽傳』をはじめとする映画の代表作がある一方、音楽人としての功績は、後のクレージー・キャッツの結成をも促したコミカルなビッグバンド“フランキー堺とシティ・スリッカーズ”の活動に尽きる。ドラマー時代に培われた抜群のリズム感が俳優に転じてからの演技にも存分に活かされたとおぼしい。氏の誕生日は1929年2月13日。存命であれば今年で88歳になる。
鹿児島生まれのフランキー堺は本名を堺正俊といい、小学校の時は合唱団に所属してボーイソプラノの歌い手として注目されたという。俳優の小沢昭一や加藤武と同級だった麻布中学校時代を経て、慶應大学在学中には与田輝雄とシックスレモンズにドラマーとして参加。芸名の“フランキー”は進駐軍キャンプで演奏する際に通りがいい様にと付けられたものであった。そして1954年にはいよいよ自らのバンド“フランキー堺とシティ・スリッカーズ”を結成する。冗談音楽の王様と呼ばれたアメリカのコメディアン、スパイク・ジョーンズの楽団名に倣って、コミカルな演奏を展開したビッグバンドには、後にクレージー・キャッツのメンバーとなるギターの植木等、トロンボーンの谷啓、ピアノの桜井千里が在籍していた。約3年間活動を続けた中で複数のレコードが出され、54年から55年にかけて録音されたそれらの音源は、後に大瀧詠一の手によって復刻が成され、当時のEP盤のジャケットデザインとタイトルが流用されて『スパイク・ジョーンズ・スタイル』のタイトルでリリースされている。収録曲のひとつ「炭坑節」では植木等のヴォーカルも確認出来る。
バンドが早い時期に活動を終えたのは、フランキー堺が次第に役者の仕事へシフトしていったためである。それまでにも東宝や新東宝の作品に出演していたが、1955年に日活のプロデューサーだった水の江滝子から誘われ、翌1956年に日活と専属契約を結んだ。主柱を失ったシティ・スリッカーズはしばらく活動を続けるもやがて解散となり、その意志を受け継ぐかの如くハナ肇が植木や谷を呼び寄せてメンバーを固めたクレージー・キャッツは国民的な大スターとなってゆく。一方でフランキー堺は俳優としてめざましい活躍を遂げ、1956年は年間で実に11本もの映画に出演した。翌1957年には川島雄三監督『幕末太陽傳』でキネマ旬報とブルーリボンの主演男優賞を受賞。さらに1958年には心酔した川島監督の後を追って東宝系の東京映画へ籍を移す。この年にはTBSの芸術祭参加ドラマ『私は貝になりたい』に主演して大きな話題となった。以降は映画・テレビに加えて舞台でも大活躍し、殊に東宝の映画、「社長」シリーズや「駅前」シリーズなどをはじめとする喜劇でコメディ役者としての才能を開花させる。ミュージシャン出身だけあってリズム感覚に長けていたのが特徴。当時は興行的に失敗したが、日本映画では珍しいミュージカルに果敢に挑んだ『君も出世ができる』(1964年)での躍動感は素晴らしく、だいぶ後になってから作品を再評価する声も高まった。
映画でも舞台でも達者な歌声を常に披露していたフランキー堺の歌手としての最初のレコードは、1959年にコロムビアから出した「僕が女房を貰ったら」で、五月みどりとの共唱による古賀政男の曲だった。同じ年には原六朗作詞・作曲、三保敬太郎アレンジによる「もぐらの唄」を東芝レコードから。ジャケットには“芸術祭奨励賞”と刷られていた。その後少し空いて、1963年には川島監督の映画『とんかつ一代』の挿入歌「むらさき色の夜のため」を森繁久弥「とんかつの唄」のB面として再びコロムビアから出し、さらに同じ年にはやはり東京映画絡みで、主演作『わんぱく天使』の主題歌「パパとデイト」を少女歌手の面高陽子と歌っている。1966年以降はクラウン専属となり、「男のテキ」「人生小唄」「たぬき坊主」「男の泣きどころ」など、年齢を重ねるにつれ人生の悲哀を表現する作品が多くなっていった様だ。1977年には「月光価千金」や「シング・シング・シング」などスタンダード・ナンバー13曲を吹き込んだアルバム『この素晴らしい世界』を発表しており、1996年の没後には追悼盤のCDが再発売された。八木正生がアレンジを担当し、ジャパン・オールスターズの一流メンバーがバックを務めたこのアルバムが、ミュージシャンとしてのフランキー堺の到達点といえるかもしれない。ドラムスの“猪俣猛、石川晶、フランキー堺”という連名クレジットが輝かしい。早逝した川島監督の遺志を継ぎ、ずっと企画を温めて続けていた映画『写楽』を最晩年に完成させることが出来たのは本望であったろう。
≪著者略歴≫
鈴木啓之 (すずき・ひろゆき):アーカイヴァー。テレビ番組制作会社を経て、ライター&プロデュース業。主に昭和の音楽、テレビ、映画などについて執筆活動を手がける。著書に『東京レコード散歩』『王様のレコード』『昭和歌謡レコード大全』など。FMおだわら『ラジオ歌謡選抜』(毎週日曜23時~)に出演中。
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