2016年05月26日
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2016年05月26日
萩原哲晶という名を聞いて、すぐにピンとくる方は少ないかもしれない。しかし、植木等の「スーダラ節」を作った作曲家だといえば、たいていは「ああ、なるほど」となる。単なるコミックソングに留まらず、その後のジャパニーズ・ポップスの歴史に大きな影響をもたらした大傑作を世に送り出した男は、仕事面だけでなくプライベートでもかなりの個性派だった様で、数々の珍奇なエピソードが残されている。84年1月に惜しくも58歳で早逝してから、今年は三十三回忌にあたる年。そして5月26日が誕生日の氏は、存命ならば91歳で、植木等よりひとつ年上。氏が初期に在籍していたクレージー・キャッツも今や健在なメンバーは犬塚弘だけとなってしまい、昭和が遠くなったことを想わずにいられない。
一般的には“はぎわらてっしょう”と呼ばれるが、正式には“はぎわらひろあき”と読む。北海道生まれの氏は、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)出身。戦時中は陸軍戸山学校軍楽隊で、團伊玖磨や芥川也寸志と一緒だったという。1949年に自身のバンド<萩原哲晶とデューク・オクテット>を結成し、3年後の<萩原哲晶とデューク・セプテット>を経て、55年にはハナ肇、犬塚弘らと共に、クレージー・キャッツの前身<ハナ肇とキューバン・キャッツ>に結成から参加する。その後、作曲に専念するためにバンドを脱退するも、<ハナ肇とクレージー・キャッツ>となってコミカル路線に特化した彼らとの繋がりは続き、61年に出されたレコード・デビュー曲「スーダラ節」(歌・植木等)の作曲・編曲を萩原が担当することとなった。そのことが決まってしばらく、萩原は植木に執拗に付いて歩き、曲の発想を練ったという。気心の知れた仲間だからこその楽曲作り。仕事仲間だった青島幸男の天才的な詞世界と合わさって、世紀の傑作が誕生したのだ。
レコーディングでは、普段の歌謡曲の録音には決して使われない、チンドン屋の如き特殊楽器の数々がスタジオに持ち込まれ、あの独特なサウンドが生まれた。その場に居合わせたスタッフや演奏者たちも笑いを堪えるのに必死だったという。メンバーの植木等と谷啓、桜井センリが、冗談音楽のスパイク・ジョーンズ・スタイルを採り入れていた<フランキー堺とシティ・スリッカーズ>に在籍していたことの継承の意味もあっただろう。ハナ肇が想い描いていたコミック・バンドの理念を見事に具現化した萩原サウンドは、正にクレージー・キャッツの象徴であり、「スーダラ節」のヒットなくしては、彼らが国民的な人気を誇るグループにまで成長することはなかったかもしれない。「ハイそれまでョ」「ホンダラ行進曲」「だまって俺について来い」など、その後も続々と生みだされたクレージー・ソングのほとんどは、青島×萩原のゴールデン・コンビによる作品で、このコンビネーションは、同時期の「上を向いて歩こう」における永六輔×中村八大や、後の「ブルー・ライト・ヨコハマ」の橋本淳×筒美京平、さらに後のピンク・レディーなどの阿久悠×都倉俊一といった名コンビと同様、歌謡界における幸福な出逢いの極みであった。名作「ハイそれまでョ」で当初用意されていた“馬鹿”のオチが、萩原の提言によって“ご苦労さん”と改められ、毒気の強い青島の詞に、よりユーモラスな味が醸し出されたというのはいい話である。
萩原の遺した仕事は、クレージー・キャッツの作品だけではない。極めて近いところでは、放送作家だった青島幸男が『シャボン玉ホリデー』に出演して“青島ダァ!”のギャグで一躍人気者となった後の歌手デビュー作「青島だァー」も、もちろん萩原の作。青島とのコンビでは、伝説のローティーン歌手・梅木マリに書いた「銀座のバカンス」も隠れた傑作のひとつだ。有名なところでは、アニメ『エイトマン』の主題歌も担当している。作詞はやはり放送作家として活躍していた頃の前田武彦で、歌は克美しげる。いずれも63年に出されたもので、この年はもう一枚、古今亭志ん朝の「ソロバン節」という優れた作品もある。小林旭を想わせる朗らかな高音で軽快に歌われるリズミカルな作品は、一連のアキラ節に勝るとも劣らない。63年は作曲家・萩原哲晶にとって大躍進の年であったといえる。
得意のコミックソングではほかにも、「どえらい奴」「競馬音頭」「そのうちいい娘にあたるだろう」を書き下ろした藤田まこととも相性がいい。「競馬音頭」は大橋巨泉の作詞だった。69年にはザ・ドリフターズのレコード・デビューを手がけており、A面の「ズッコケちゃん」よりもB面の「いい湯だな」が人気を博した。オリジナルはデューク・エイセスだが、『8時だョ!全員集合』の番組内で使われたこともあり、萩原がアレンジを担当したドリフ版の方が有名となった経緯がある。テレビの仕事では、岡崎友紀主演のラブコメディ『おくさまは18歳』や、坂口良子の出世作『アイちゃんが行く!』、大場久美子版『コメットさん』などの劇伴、アニメは『かみなり坊やピッカリ・ビー』『ファイトだ!!ピュー太』(いずれもムロタニ・ツネ象原作)、映画の仕事では、クレージー・キャッツの一連の主演作はもちろんのこと、加山雄三の若大将シリーズの一本でも萩原らしい躍動的な旋律が聴ける。
80年代に入り、久々に萩原の名が轟き渡ったのは、大瀧詠一プロデュースによる、金沢明子「イエロー・サブマリン音頭」のアレンジ仕事であった。早逝の天才作曲家にとって幸福だったのは、大瀧詠一という最高の後継者を得たことであろう。早くからクレージー・キャッツの一連の作品を再評価した氏は、同時に萩原を大いにリスペクトし、異彩を放つカヴァー「イエロー・サブマリン音頭」を共に作り上げた。それから僅か2年足らず、師と仰ぐ萩原の急逝を悼んだ大瀧は、天国の“グレート・ティーチャー”萩原に向けて、「後はお任せ下さい」と宣言し、実際にその後、クレージー・キャッツのシングル「実年行進曲/新五万節」をプロデュースした際に萩原の名を“原編曲”としてクレジットすることで最大の敬意を表している。シングル盤の内側の空溝に“TO DEKUSAN”という文字を刻印するという細かな配慮も施した。“デクさん”は仲間うちで呼ばれた萩原のニックネームである。このシングル盤を見る度に、萩原と大瀧の美しい絆を実感させられる。きっとふたりは天国でも楽しい夜更しをしながら一緒に曲作りに励んでいることだろう。鬼才・萩原哲晶の存在を抜きにしては、日本のノヴェルティ・ソングの歴史は決して語れない。
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