2017年07月11日
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2017年07月11日
久保田麻琴と夕焼け楽団の名前を初めて見たのは、日本版ローリング・ストーン誌であった。この雑誌の日本編集版が70年代の前半に出ていたのを、ご存知の方も少なくなったかと思う。創刊して半年ほど経った雑誌のメイン記事はキャメロン・クロウによるオールマン・ブラザーズ・バンド物語、表紙はグレッグ・オールマンであった。がしかし、アメリカのロックの状況と連動しつつ日本の情報がたっぷり詰め込まれているのが、日本版の特徴でもあった。
74年の2月号で「最高のライブアーティスト その比類のないフィーリング!」として、西荻窪にあった「ロフト」でのライヴの様子がレポートされていたのが、久保田麻琴と夕焼け楽団であった。トランプに興じている客がいたり漫画を読んでいたり、客席の雰囲気はあまりよろしくない。こんなことは今のライヴハウスでは考えられないのだが、これも70年代の光景であったのだ。店と客に注意をうながし、音楽を聴きに来た人たちだけが残ったところで仕切り直し。そこからは、リラックスとグルーヴ感とが絶妙にブレンディングされた夕焼け楽団の世界であったという。
当時の編成は、久保田麻琴のヴォーカルとギターを中心に、井上憲一(ギター)、藤田洋麻(マンドリン/ギター)、恩蔵隆(ベース)のドラムレスの四人。レパートリーには、ガス・キャノンのラグタイム・ストンパーズ「ウォーク・ライト・イン」や、ヴァン・モリソンの「クレイジー・ラヴ」などもあったようだ。記事を読んでいるだけで、その楽しそうな空気が伝わってくる。日本にもこんな、ヤングブラッズやラヴィン・スプーンフルを思わせるようなグループがいるのかと驚いてしまった。
いつかライヴが観てみたい、と思ったのも束の間、それがアルバムの形で目の前に登場してきた。久保田麻琴と夕焼け楽団のデビュー作『サンセット・ギャング』(74年10月1日発売)だったのだ。すぐに夢中になってしまったのは言うまでもない。朝な夕な、この「ゴジラのアルバム」(ジャケットに電車をくわえたゴジラの写真が使われている)に、何度となくレコードの針を置いた。
久保田麻琴は1949年生まれ。京都に生まれたが間もなく石川県小松市に移り住み高校までを過ごすが、同志社大学への進学を期に再び京都に舞い戻っている。ギターを片手に曲を作り出し、70年にURCレコードからシングル「昭和元禄帆下法偈(ほげほげ)節」(久保田誠とビザール・ホゲホゲ・バンド名義)を発表。当時の世相を皮肉ったトピカル・フォークで、この諧謔の眼差しが久保田らしい。この京都時代には、水谷孝が率いていた幻のロック・バンド、裸のラリーズにも関わりを持っている。
70年代の初頭、久保田は渡米しサンフランシスコ、ニューヨークなどを放浪してまわった。その頃のアメリカといえばヒッピー文化の真っ盛り、この自由な空気を目一杯吸い込んだ体験は、その後の彼の音楽に深い影響を与えている。帰国後の72年に松任谷正隆のプロデュースで、初めてのソロ・アルバム『まちぼうけ』(東芝エキスプレス)をリリース。風通しのいいフォーキーな手触りが心地よい作品集で、ゲストに駒沢裕城、元ダイナマイツの瀬川洋などが加わっている。裸のラリーズ時代の曲「あさの光」(作詞水谷孝)を取り上げているのにも注目したい。
このアルバムにも参加している藤田洋麻(ギター/マンドリン)に、恩蔵隆のベース、そして南正人のバックでギターを弾いていたケン(井上憲一)が加わり、セッションを重ねてバンドの形態になっていったのが、夕焼け楽団だったのだ。夕焼け楽団、ザ・サンセッツで日本の音楽シーンを黄昏色に塗り替え、その後はプロデューサーとして、インドネシアやシンガポールなどアジアの音楽を数多く紹介してくれた。そして、昨今は日本の土着的な音楽の発掘にも精力的に取り組んでいる。この久保田麻琴の誕生日が、本日7月11日であるのだ。
≪著者略歴≫
小川真一(おがわ・しんいち):音楽評論家。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員。ミュージック・マガジン、レコード・コレクターズ、ギター・マガジン、アコースティック・ギター・マガジンなどの音楽専門誌に寄稿。『THE FINAL TAPES はちみつぱいLIVE BOX 1972-1974』、『三浦光紀の仕事』など CDのライナーノーツ、監修、共著など多数あり。
久保田麻琴と夕焼け楽団には、さまざまな音楽を教えてもらった。ハワイと沖縄のアイランド・ミュージックの楽しさを伝授してくれたのは75年の11月1日発売の『ハワイ・チャンプルー』であった。<チャンプ...
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