2016年05月13日
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2016年05月13日
1985年の5月13日、中森明菜の「赤い鳥逃げた」がオリコン・チャートで1位を獲得した。
中森明菜のファンならともかく、一般的には「赤い鳥逃げた」ってどんな曲だったっけ? と思う人も多いかもしれない。この曲は、実は同年3月8日にリリースされた彼女の11枚目のシングル「ミ・アモーレ」の異名同曲。つまり違う歌詞とタイトルの曲なのである。もともとは松岡直也が作曲したメロディーに、この「赤い鳥逃げた」の歌詞がつけられていたが、内容がやや内省的であるという理由で、作詞の康珍化が書き直しを依頼され、松岡のラテン・タッチの楽曲にふさわしい、リオのカーニバルを舞台にした詞に書き換えられたのであった。
こういった歌詞の大胆なテーマ変更は、歌謡曲に限らずしばしばあることだが、「赤い鳥逃げた」の詞は通常、そのままボツとなるところを、当時日本の音楽シーンでブームとなっていた12インチ・シングルの形で発売することになった。松岡の手でロング・バージョンが作られ、よりパーカッシヴなアレンジで、リミックスを施して世に出たのである。
12インチ・シングルは、もともとディスコでDJたちがプレイするために音圧、音質を調整してプロモーション用に配布されていたスタイルで、楽曲のロング・バージョンが収録されることが常であったが、80年代に入ると新たな表現形態としてアーティストたちがこぞって12インチを作り始め、一般の商業ベースでリリースされるようになった。歌謡曲ジャンルでは小泉今日子の「ヤマトナデシコ七変化」が、84年11月と早い段階で12インチバージョンを発表していたが、明菜の「赤い鳥逃げた」もこれに続くものといえる。
作曲者であるラテン・フュージョンのピアニスト松岡直也は、歌謡曲への楽曲提供はほとんどなく、明菜作品への参加は異色ともいえた。ラテンのメロディーは歌謡曲との相性がいいことは良く知られるところで、この曲も親しみやすいメロディーではあるが、1番と2番で曲の流れが異なる複雑な構成をとっている。これを違和感なく聴かせてしまう松岡の腕も見事だが、溢れる情感を時に抑え目に、時に解放して一気にサビへもって行く明菜の歌唱もまた素晴らしい。恋の喜びを情熱的に歌う「ミ・アモーレ」に比べ失恋の痛みを歌う「赤い鳥逃げた」ではやや抑え目のトーンで歌われており、歌唱解釈の違いがみえる。
この12インチ・シングルのB面に配された「BABYLON」も聴きどころの多いナンバーである。もとは同年リリースのアルバム『BITTER AND SWEET』に収録されたダンサブルなディスコ・トラックで、そのロング・リミックス・バージョンとして収録された。作詞:SANDII、作曲:久保田麻琴、編曲:井上鑑のトリオによるもので、マドンナの「INTO THE GROOVE」をベースにしたミディアム・テンポのサイケデリックなエスノ・ファンク。打ち込みのシンセやスクラッチ音がこの時代らしい響きだが、長尺版ではAメロの明菜とサンディーによるラップや、印象深いリフが強調されている。両面合わせてエスニック・ムードであり、以降の彼女が「SAND BEIGE-砂漠へ-」や「TANGO NOIR」「AL-MAJI」などの異国情緒歌謡へと進んでいく契機となった1枚でもあるのだ。
ちなみに「ミ・アモーレ」のほうは85年3月18日付けのオリコン・チャートで初登場1位を獲得しており、2ヶ月と空かず別の詞で同じ曲が1位を取るという珍しい事態となった。当時のランキング歌番組『ザ・ベストテン』ではこの2曲が同時にベスト10内にランクインすることもあったが、その際には「ミ・アモーレ」のみを披露している。
1985年3月8日、中森明菜のシングル11作目「ミ・アモーレ」がリリースされた。明菜にとっては初のラテン歌謡で、この曲を境にアイドル・シンガーから本格的な大人の歌手へと脱却を果たした1曲でもあり...
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