2017年12月08日
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2017年12月08日
1994年12月8日アントニオ・カルロス・ジョビンはニューヨークの病院で67年の生涯を閉じた。
思いでの中では、アントニオ・カルロス・ジョビン(以下ジョビン)の死と大貫妙子(以下ター坊)が分かちがたく結びついている。以下ジョビンと以下ター坊の間にはどこにも接点がない。彼女がジョビンの曲を歌ったことはないし、もちろん会ったことも挨拶をかわしたこともない。そんな交わるはずのない二本の線が交差する瞬間があったという事実は誰も知らない。ター坊には知らせていなかったし、ジョビンもオスカー・カストロ・ネヴィス(以下オスカー)ももうこの世にはいない。
1994年10月、僕はター坊のアルバム『チャオ』のレコーディングでリオ・デ・ジャネイロに滞在していた。リオで合流することになっていたオスカーは同時期に二つのプロジェクトを抱えていた。『チャオ』ではアレンジを、もう一はジョビンのボサ・ノヴァ・プロジェクトのプロデュースだった。ところで、プロデューサーとしてもアレンジャーとしてもワールド・ファースト・クラスのオスカーだけど、たまに信じられないようなポカをやらかす。
オスカーは社交辞令を言うようなタイプではないので、半信半疑ながら心がときめいた。
このいきさつをター坊は知らない。実現するかどうか、夢のような話だし、その時になってアッと驚かせたかったので内緒にしておいたから。
ジョビンのレコーディング日の早朝、話があるとオスカーから電話があった。ロビーに降りていくといつもの笑顔が消え失せたオスカーが、まるでこの世の終わりかと思えるほどに打ちひしがれた様子で座っていた。
「昨日の晩にトムが倒れた。ハートアタックだ。とてもシリアスな状態らしい」、消え入りそうな小さな声で言った。僕はなにをどう言ったらいいのかわからず黙り込む。目の前にあった淡いときめきが一瞬のうちに消え去っていった。ジョビンのピアノで歌うター坊なんて、どんなに素晴らしい出来になっただろうか。聴いてみたかった!
その晩オスカーが食事に誘ってくれた。ことあるごとにジョビンに連れてきてもらったというイパネマのイタリア料理のレストランだった。ショックがあまりにも大きすぎたからだろうか、いつにもまして饒舌になったオスカーは食事のあいだ中とめどもなくジョビンとの思い出を語り続けた。あの時はこうだった、その時はこうだった、トムはこんなことを言った・・・・。
オスカーはデザートのアイスクリームを食べながら、「このままリオにいたらトムは死んでしまうと思う。今かかっている医者はマジナイ師みたいなものなんだよ。僕の兄貴にニューヨークの病院を手配させたんだけど、トムは行ってくれるだろうか。ここにいてもどうしようもない。トムは死んでしまう」、と悲痛な面もちで言ったまま彼は黙りこんでしまった。
「ジョビン斃れる」のニュースは、ほんの数時間でリオの音楽関係者全員が知ることとなったようだ。リオの友人たちもことごとくジョビンの病状を心配し、すぐにニューヨークに行くべきだと噂しあっていた。
数日後、ジョビンは家族に付き添われて、NYの病院に転院した。誰が説得したのかはわからない。とりあえずネヴィス兄弟の伯米に渡るドクター人脈が功を奏したかっこうとなった、一旦は・・・
チャオのレコーディングが終わり、オスカーはLAに戻らずNYへと飛び立った。
≪著者略歴≫
宮田茂樹(みやた・しげき):1949年東京生まれ。A&Rマン、レコード・プロデューサー。82年にDear Heartレーベル(RVC)を、84年にはMIDI レコードを設立。 制作に携わった主なアーティスト大貫妙子、竹内まりや、EPO、ムーンライダース、リトル・クリーチャーズ、ジョアン・ジルベルト、トニーニョ・オルタ、Nobie。 現在は休職兼求職中。
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