2017年12月07日
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2017年12月07日
スカイツリーが開業して久しい今でも、東京のシンボルとして偉容を誇っている東京タワー。正式名称を日本電波塔といい、1958(昭和33)年に完成した。正式な竣工日は12月23日になるが、プレオープンとして公開が始まったのは12月7日。今から59年前のことであった。着工から約1年半を要して東京の空に聳え立った高さ333メートルのタワーは、小説や映画、そして歌謡曲の題材としても数多く採り上げられている。
当時、巷の話題を独占していた東京タワーは、完成する前から逸早く歌が作られた。ただし、“東京タワー”という愛称が決まったのは10月で、それ以前に作られたものは、その役目をストレートに表した“テレビ塔”という名称が使われている。山下敬二郎と朝丘雪路が歌った「テレビ塔音頭」は創立間もない東芝レコードから。当時はまた東京芝浦電機の音楽事業部だった。B面の「テレビ塔の見える道」は美空ひばり「お祭りマンボ」などで知られる原六朗の作詞・作曲によるもの。“テレビ塔”がタイトルについた歌では、フランク永井が歌った「たそがれのテレビ塔」もある。「有楽町で逢いましょう」がヒットして一躍スターとなったフランク永井のナンバーには銀座をはじめとする東京の名所が歌われたものが多く、これもそのひとつである。塔の高さがタイトルに掲げられた「東京333米」はミラクル・ヴォイス名義で出された覆面歌手もので、フランク永井ばりの低音の魅力で歌われるムード歌謡。これがおそらく“東京タワー”という言葉が歌詞に登場する最初の曲ではないだろうか。3番の歌詞には、パリのエッフェル塔まで登場するスケールの大きさ。かくしてその正体はキングレコードの青山ヨシオであった。といっても今は誰も知らないだろう。
開塔の翌年、59年には、美空ひばりがその名もズバリ「東京タワー」という曲を出した。船村徹の作曲による、明るくモダンなナンバーである。船村というと大作曲家になってからの演歌系の作品が想起されるが、小林旭の「ダイナマイトが百五十屯」しかり、明るくポップな作品も多く手がけているのだ。原田信夫が歌う「夜霧のテレビ塔」はポリドールからの発売。東京タワーの名も定着した1960年の作品だが、あえてこのタイトルが用いられている。原田は後にザ・キャラクターズを結成し、69年に「港町シャンソン」をヒットさせる人物。曲自体はあまり知られていないだろうが、西田佐知子の大ヒット「アカシアの雨がやむとき」のカップリング曲だったため、タイトルになんとなく聞き覚えがあるという方は多いかもしれない。また、東京の新名所となったタワーを舞台にした映画が少なからずある中で、最も初期の作品に挙げられるのが59年2月に封切られた日活『東京ロマンス・ウェイ』。若者たちの恋と友情が描かれた青春明朗篇は二谷英明の主演で、ロカビリー歌手として人気絶頂の平尾昌晃が出演して同名主題歌も歌っている。さらに同じ月には大映で『たそがれの東京タワー』というメロドラマ仕立ての作品も封切られており、こちらはフランク永井「たそがれのテレビ塔」が主題歌となった。
しかし、東京タワーが出てくる映画で印象的なのは、やはり『モスラ』ではないだろうか。東宝のお家芸である特撮怪獣映画の代表作のひとつで、妖精の如き小美人役をザ・ピーナッツが演じたことで知られる。ふたりが歌う挿入歌「インファントの娘」のレコードジャケットにもタワーが写っているが、これは幼虫のモスラが麓に繭を作り、羽化する際に崩落してしまった無残な姿なので、当時のタワーの関係者はきっと快く思わなかったことだろう。が、今となっては特撮映画の歴史に残る名シーンとなっている。「インファントの娘」は宮川泰がアレンジしていることもあり、ヒット曲「ウナ・セラ・ディ東京」を想わせる、ゆったりとした雰囲気でムードたっぷりの良歌である。
その後、東京の風景にすっかり溶け込んだ東京タワーは歌の題材としてはしばらく鳴りを潜めた感はあるものの、79年には遠藤賢司がアルバム『東京ワッショイ』の1曲として「哀愁の東京タワー」を発表している。もっともこれは60年代ムード歌謡のパロディとおぼしく、時代に則したシティポップの曲としては、松任谷由実「手のひらの東京タワー」が代表的な作品といえるだろう。81年のヒットアルバム『昨晩お会いしましょう』に収められており、同アルバムの「タワー・サイド・メモリー」では神戸ポートタワーが歌われているのが面白い。「手のひらの東京タワー」は実は石川セリに提供された曲で、彼女のアルバム『星くずの街で』に収録。2004年には野宮真貴もカヴァーした。最近ではスカイツリーをテーマにした曲もたくさんあるのだが、まだヒット曲は生まれていないようだ。
「テレビ塔の見える道」「たそがれのテレビ塔」「東京333米」「東京タワー」「夜霧のテレビ塔」「手のひらの東京タワー」ジャケット写真撮影協力:鈴木哲之
≪著者略歴≫
鈴木啓之 (すずき・ひろゆき):アーカイヴァー。テレビ番組制作会社を経て、ライター&プロデュース業。主に昭和の音楽、テレビ、映画などについて執筆活動を手がける。著書に『東京レコード散歩』『王様のレコード』『昭和歌謡レコード大全』など。FMおだわら『ラジオ歌謡選抜』(毎週日曜23時~)に出演中。
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