2018年01月08日
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2018年01月08日
1947年1月8日、英国ロンドン南部ブリクストンに生まれ、18か月闘病の末に69歳で肝癌により死去したデヴィッド・ボウイは、ビートルズやローリング・ストーンズと比しても文化性の高いアーティストとして歴史に名を残すことになるだろう。
最初の大ヒット曲といえる「スペース・オディティ」(1969)は映画「2001年宇宙の旅」(68)へのオマージュだが、ボウイはそれに留まっていない。トム少佐という人物を主人公に、宇宙という「死の空間」に放り出された孤独を歌う。当時宇宙開発は、ひたすら華やかでイケイケに語られたにもかかわらず。宇宙旅行の壮絶な孤独に、青春における疎外された心境を重ね合わせたその重層構造が楽曲のポイントだ。1969年までの気楽なポップシーンにはない深い感慨があり、ビートルズ曲よりもっとシックで、陰影がある。それでいてポップでわかりやすい。
ボウイは、62年活動開始であり、60年代のビートルズやストーンズとほぼ同期、64年デビューのザ・フーより若干先輩? といえるわけだが、64年デビュー作『ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・キング・ビーズ』、67年ソロデビュー作『デヴィッド・ボウイ』の不発を含み、長い雌伏を耐えた。
ロックは60年代後半、サイケデリックで表現の可能性を拡げたが、ディランを継いだボウイの文学的な表現を受けつけるようなシーンでは、まだまだなかった。シングル・ヒット中心のミーハーな世界だった。ディランやビートルズは、ロックの芸術性を高めるための孤軍奮闘だった。その延長線上にやっとボウイの居場所がコジ開けられた。「ロックを手段として初めて使ったのは俺だ」とボウイは初期に発言した。
そんなボウイの素顔を知る上で、最上のエピソードをもたらしてくれるのが『ボウイ、ボランを手がけた男トニー・ヴィスコンティ自伝」』(シンコー)である。最終アルバム「★」に至るまで、ボウイ重要作の多くのプロデュースを手がけた男。
ボウイの行動について、67年のリンゼイ・ケンプ・カンパニーでの修行中の描写がある。「そもそもボウイにはカリスマ性があり、その上、マイムレッスンのおかげでひとつひとつの動作に細心の注意を払うようになった。例えば冷蔵庫に牛乳を取りに行く普通の動作でも、優雅に芸術的に歩くやり方をイメージしながら取り組んでいた。彼がほんの少し動くだけで、彼の身体の中をサラサラとさざ波が流れていくようだった」どうだろうか? 彼のライブ・パフォーマンスを照らしてみると、ボウイのめざしていたロック・アーティスト像が理解できるだろう。ボウイにとっては、立ち振る舞いすべてが後世に問うアートだった。サウンドとビジョン(視覚アート&パフォーマンス)を統合した芸術だ。
同じ本で驚きだったのは、アルバム『ダイヤモンドの犬』の内情だ。ボウイは自分をスターに押しあげた『ジギー・スターダスト』のキャラクターを73年7月に突然捨ててしまった。模索にかかった1974年の初頭、トニーの元にボウイからミキシングに行き詰まっていると助けを求める電話が入った。トニーは、ボウイとは離れていた。最重要パートナー、Tレックスに独占されていたからだ。しかし心離れを始めていた。そこで恐らくマーク・ボランに内緒で予定を開け、自分の最新のエフェクターが揃っている新スタジオに招いた。特にイーブンタイドのデジタル・ディレイ、その後の録音シーンを塗りかえる機材がポイントだった。丁寧で繊細なエフェクト処理が行われ、ボーカルはヴィヴィッドに切り立ち、前作にない音楽世界が現れた。黒人音楽に影響を受けながらもクリアーでダイナミックなサウンドは白人ロックの新境地といえた。その延長線上に次作『ヤング・アメリカンズ』はブレイク「フェイム」は初の全米1位、米国に進出に成功する。
しかしそんなボウイの試行錯誤は、成り行きでは失敗寸前だったことに着目したい。トニーがライフワークであったTレックスとうまくいっていたら? この偉業は流れていた。トニーの都合が悪かったら『ダイヤモンドの犬』のヒットはなかった。その可能性は十分にあった。その後のキャリアが全て倒れていたところだった。
芸術家の所業とは、そういうことだ。自分の信じる創作のために、立場を投げ打って実験する。頼りない成立過程でたどり着く作品に人生を賭けるのだ。このエピソードはボウイの芸術家としての性質を現している。
ボウイは1973年に、せっかくグラムロックとして成功したミック・ロンスンとのワイルドにドライブするバンド、スパイダース・フロム・マーズを解散してしまった。横ゆれに魅力がある70年代初頭型バンド・サウンドでそのまま活動していたら、さらに営業で売れるキャリアが作れただろう。しかし、歴史には残らなかったかもしれない。ボウイが「大スターだが売り上げ的には低い」のはそこに理由がある。売り上げは継続的な活動からもたらされるからだ。
ボウイは実験という賭けを続けた。せっかく成功した米国でのキャリアを捨て、トニーと『ロウ』『ヒーローズ』『ロジャー』のベルリン三部作をものにし、黒人ロックとの融合の上にユーロ性を加味、クラウトロックへの道を開いた。それらはニューウェイヴの先達となり、ロックをさらに高い次元に引き上げた。
死の前に盟友トニーとのプロダクションに戻り、『ヒーローズ』を振り返るような『ザ・ネクスト・デイ』(2013年)で全米2位、英1位にカムバック、ジャズを基盤に新しい展開を持った『★(ブラックスター)』(16年)で、ロックサウンドの革命を再び行ったのみならず、全米英1位をとった。チャートは「芸術家ボウイ」にとってシャレのようなものだったろう。「芸術家」にとって反応はついてくるもの。評価は例え死んでしまった後でもいい。
デヴィッド・ボウイの細心の注意が払われた作品群は、どれも再評価の時を待っている。
≪著者略歴≫
サエキけんぞう(さえき・けんぞう):大学在学中に『ハルメンズの近代体操』(1980年)でミュージシャンとしてデビュー。1983年「パール兄弟」を結成し、『未来はパール』で再デビュー。『未来はパール』など約10枚のアルバムを発表。1990年代は作詞家、プロデューサーとして活動の場を広げる。2003年にフランスで「スシ頭の男」でCDデビューし、仏ツアーを開催。2009年、フレンチ・ユニット「サエキけんぞう&クラブ・ジュテーム」を結成しオリジナルアルバム『パリを撃て!』を発表。2010年、デビューバンドであるハルメンズの30周年を記念して、オリジナルアルバム2枚のリマスター復刻に加え、幻の3枚目をイメージした『21世紀さんsingsハルメンズ』(サエキけんぞう&Boogie the マッハモータース)、ボーカロイドにハルメンズを歌わせる『初音ミクsingsハルメンズ』ほか計5作品を同時発表。また、2017年10月、中村俊夫との共著『エッジィな男ムッシュかまやつ』(リットー)を上梓。2018年3月7日(水)近田春夫をゲストに迎え、渋谷クアトロでパール兄弟ライブを行う。
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