2018年08月23日

本日は“ロック界の破壊王”ザ・フーのキース・ムーンの誕生日

執筆者:行川和彦

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英国を代表するロック・バンドのザ・フーの屋台骨を支えたキース・ムーンは、1946年8月23日ロンドン北西部生まれ。破天荒なドラマーであり、クレイジーな無数の逸話が物語るロック界屈指の破壊王でもあった。


キースはギターを差し置いて“リード・ドラム”と化し、黙々とリズムを刻むドラマーのイメージを塗り替えた。日本語で言えば“オカズ”のフィルインを多用する手数の多いドラミングゆえにリズム・キープは怪しく、調子がいい時は速くなって悪い時は遅くなる演奏だったらしいが、それでもツボを押さえて叩き続けて曲を加速させた。


ハイハット無しのドラム・セットも独特でいち早くツー・バスを設置し、サイズが大きいドラムのパーツが年々増えて“要塞化”していった。キースのドラムの音がケタ外れに音がデカいからギターもベースもマーシャル・アンプを積み上げて音量を上げ、スタイルを超えてハード・ロックの原型にもなった。と同時に、抜けのいいドラム・ビートはザ・フーの曲のポップ感を際立たせもした。


ドラム・セットの中に居ながらもキースは他のメンバーに負けじとばかりのダイナミックな“全身パフォーマンス”も展開。そもそも1964年に加入する際、ドラムの皮を破りバス・ドラムのペダルを壊すほどのパワー全開の演奏をメンバーの前で披露した人である。1965年録音のファースト『マイ・ジェネレーション』の米国盤LPのライナーには、“ステージを終える頃には折れたドラム・スティックが山のように残される”と書かれていたが、リーダーのピート・タウンゼントがギターを叩き壊すことに触発されてまもなくキースもドラムを破壊。ライヴの“お約束”にもなるが、妥協無しだった。


ツアー先のホテルの室内を破壊する行為は昔からロックスターの“定番”だが、これまたキースは徹底していた。ホテル側の失礼な態度にキレて始めたらしいが、時に爆薬も使って次々と出入り禁止を食らうほどエスカレート。友人宅も自宅も聖域にはしなかった。特に爆破行為は一歩間違えば大惨事だが、暴力的というよりオチャメに映るのはキースの天然キャラゆえのことだろう。


でもアルコールと薬物が器物破損だけでなくキース自身の破壊も推し進め、ロック・ドラマーとして致命的なほど体が言うことを利かなくなり、ザ・フーでの活動に支障をきたしていく。人間用では効かなくなっていたためか動物用の精神安定剤をアルコールと一緒に飲んでステージに上がり、演奏中に気を失った1973年11月のライヴが象徴的だ。


そんな中でキースは多彩な活動を模索。もともと映画への興味が強かっただけに俳優業にも挑戦していき、ザ・フーのロック・オペラ・アルバム『トミー』(1969年)の1975年の映画版にも役者として出演。ほぼヴォーカリストに徹して豪華ゲスト多数が脇を固め、大好きなビーチ・ボーイズをはじめとするカヴァー中心の唯一のソロ・アルバム『Two Sides Of The Moon』も、同年にリリースする。



1978年8月にザ・フーは3年ぶりのアルバム『フー・アー・ユー』を出したが、それから1ヶ月足らずでポール・マッカートニーと食事をした翌日、アルコール依存症のための薬の過剰摂取でキースは32才で他界する。


オフ・ステージだけでなくオン・ステージでも真にワイルドだったのがキース・ムーン。本物の証しはアナーキーなドラムに表れていた。やんちゃな行動に“オン/オフ”がなかった。日々すべてが自己表現だった。内向的な性格の反動のフラストレイションの炸裂にも思えるが、ドラムだけでなく自己破壊もコントロールできなかった。理由なんかない。すべては本能、それがキース・ムーンだった。


≪著者略歴≫

行川和彦(なめかわ・かずひこ):Hard as a Rockを座右の銘とする1963年生まれの音楽文士&パンクの弁護人。『パンク・ロック/ハードコア・ディスク・ガイド 1975-2003』(2004年~監修本)、『パンク・ロック/ハードコア史』(2007年)、『パンク・ロック/ハードコアの名盤100』(2010年)を発表。

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