2016年02月17日
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2016年02月17日
1973年の暮れだった。
りりィから「へんな歌ができちゃったの」と電話があった。もう深夜に近い時間だったが、南青山のりりィのアパートに駆けつけた。
りりィが、ベットに腰掛けてギターを抱えている。一緒に住んでいるハーフの女の子ジュン(のちの名曲「june」の主人公)と、カーペットに寝ころぶ感じで、歌いだすのを待つ。
「私は泣いています」…
歌詞を書きつけたノートはあったと思うが、コードを探りながらフルコーラス歌いきった。
しっかりとこちらの胸に飛び込んでくる歌だった。が、「これ、ほんとにおまえが作ったの?」と聞き返すぐらい意外な曲だった。
翌日、カセットテープに吹き込んで東芝EMI(この年10月に東芝音工から東芝EMIになっていた)の第2制作部 新田和長チーフ プロデューサーに、それまで、フォークというより、ロックっぽい「心が痛い」などのシングルを出していたので、「ちょっと路線を外れた曲ですが」と注釈付きで持って行かせたら、「これは、行ける!」とバカ乗りしてくれて、武藤ディレクターが六本木のMOSSの事務所まですっ飛んで来た。
さっそくレコーディングということになって、それまでりりィのアルバムすべてをアレンジしてくれていた木田高介を呼んで、何とか歌謡ポップスのようなこの楽曲を、格好いいものにしてほしいと頼んだ。
ワルツのリズムに、ニューハードの市原さんのフルートをフューチャーして、ジャズぽい仕上がりになったのだが、これまで出してきた「たまねぎ」「ダルシマ」というフォーク・ロック系のアルバムの楽曲とまるで違うので、この曲だけ、りりィに、スージー・クアトロばりに、ベースギターを持って歌ってもらうことにした。
1974年4月21日発売。
またたく間にオリコンチャートを駆け上がり、最終的には84万(実数)枚を超える大ヒットとなった。
当時、オイルショックが長く尾を引いていて、トイレットペーパーを買う主婦たちの長蛇の列の写真を載せた新聞記事の見出しに、「私は泣いています」と書いてあったりした。
オリコン2位に上りつめた頃、生まれ育った隅田川河口にある月島(今では、もんじゃ焼きタウンとして有名になった月島)で、戦前からセトモノ屋をやっている実家に帰って、子どもの頃から行きつけの銭湯「松の湯」に行った。
頭を洗っていたら、隣で魚河岸勤め風のおじさんが、手ぬぐいをタスキ掛けに背中を洗いながら、大きな声で、「わったしは、ないています、ベッドのうえでえ~」と歌い出したのには、びっくりした。
その時、流行歌(はやり歌)作りの名人が、「とどのつまり歌は世につれ、世は歌につれだよ」と云っていたのを、遠い話のように聞いていたのが、にわかに身に沁みたのを思いだす。
そんな、「時代が歌を孕み産み落とす昭和の時代」を懐かしんでいるようでは、いまだ老骨に鞭打ちながら現役面(づら)して日々を送っている者として、何とも歯がゆくて情けない。
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「りりィが逝った。」 覚悟は出来ていたつもりだったが、呆然としている。訃報を聞いたあと、昼過ぎから、献杯のつもりで、ワインを飲んだりしているのだが少しも酔わない。 text by 寺本幸司
りりィの「泣いています」はオリコン・チャートを駆け上り、実数87万枚のヒットとなった。これといった注文を出さないまま出来てきたのが1973年9月5日に発売された次のシングル曲「風のいたみ」である...
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