2018年01月17日
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2018年01月17日
本日1月17日は浅川マキの命日である。
昨年の初夏、浅川マキとヨーロッパへ行った。いや、厳密には、浅川マキにヨーロッパへ連れて行ってもらった、と言うべきだろう。
2年前に、ロンドンのオネストジョンというレーベルからUK盤『Maki Asakawa』が全世界発売になって、ヨーロッパを中心にひそかな浅川マキ ブームのようなものが芽生えた。そして、リヨン(フランス)のアンダーグラウンド音楽イベント『Play Box』から招かれ、日愛国交六十年を迎えたダブリン(アイルランド)からも手が挙がって、うまいぐあいに文化庁国際交流基金も下りた。
そこで、1部 「浅川マキ ビデオ ライブ」、2部 「金子マリ 浅川マキを唄う」(ギター:萩原信義、森園勝敏)という構成で、『浅川マキの世界・ヨーロッパ ツアー』として一行6名、予算ぎりぎりの貧乏ツアーではあったが、2017年5月16日から機内泊もふくめて2週間ほどの旅をした。
19日、リヨンのライブシアター「ペリスコープ」、22日、ダブリンのライブハウス「ワークマンズ」で、成功と呼べる公演成果を果たし、23日、ロンドンに移動した。
同日の夜。ロンドンでは、UK盤『Maki Asakawa』に、浅川マキ文化論のような長文のライナーノーツ(この翻訳文を読んで、日本盤のリリースを決めたほどの名文)を書いたロンドン大学SOSA(アフリカ・アジア社会文化学科)アラン・カミングス教授が、ロンドン大学で「浅川マキの世界」というワークショップを準備して待っていてくれた。
ロンドン大学のワークショップは、SOSAの110番教室でやるので、演奏はなし。
1部はカミングス教授の「浅川マキとその時代」ともいうべき文化論講演が1時間。2部に「浅川マキ ビデオ ライブ」が30分。3部は、アランと寺本が「浅川マキについて語る」で1時間。
特に、3部では、行く前からアランに、2010年1月17日に浅川マキは名古屋の老舗ジャズ クラブ「ジャズ イン ラブリー」で満員の客を待たせたままホテルで急死するのだが、その前日の16日のライブを観に行って、マキの壮絶ともいえるその夜のパフォーマンスと最後のマキとの会話を話させてほしい、と言ってあった。
ビデオ上映が終わって、そのマキの最後のステージの話になったら、40人近い参加者のうちの半数近くが白人や日系の女性たちだったが、すすり泣きの声がもれ伝わって来て、通訳していたアランも一瞬、言葉を止めた。
それは、2部で上映したライブ映像から伝わってくる浅川マキの生々しい存在感にあった、と思った。
国際交流基金が下りるのがわかったのが、4月15日だったので、出発まで1カ月。今回のツアーを企画してくれた相棒の磯野プロデューサーと大慌てで準備を進めた。「金子マリ 浅川マキを唄う」コーナーは、萩原、森園メンバーで京都公演でも成功をみているので心配ないが、問題は、浅川マキの声とか写真は聴いて見ているかも知れないが、浅川マキが実際に歌っている場面を見せなければ、いくら解説のようなチラシを配ってもインパクトが弱いし、今回の『浅川マキの世界・ヨーロッパ ツアー』には、このマキのビデオ ライブが生命線だと考えていた。
さっそく、マキがデビューした頃から、写真を撮りつづけ、のちにビデオも回していたタムジン(田村 仁)の家に行って倉庫をひっくり返すように探したが、こちらの欲しいもの(全曲フルコーラス映像で、それにフランス語と英語の翻訳字幕をつける)が、画像もふくめて、これというものが見つからない。
1995年以降、毎年末にやっていた、ピット インの『大晦日まで5夜連続公演』のいい映像はあるのだが、もうこの頃には、眼を患ったマキは、いつもサングラスをかけている。サングラス姿で歌う浅川マキをヨーロッパに連れて行きたくない。先が真っ暗になるほど、悩み込んだ。
5月に入って、もう出発まで10日を切りそうな頃、菅原文と名のる女性から「山崎幹夫という映像作家が、浅川マキさんのライブ フィルム上映会をやっているのを知っていますか」という連絡がきた。そして、彼女は、「山崎幹夫監督の、その国分寺の上映会(1,000円+ドリンク代)に行って、いたく感動して、その画面に出て来るミュージシャンに観てもらいたいという思から、ライブ&上映会を企画しているのですが、渋谷毅さんや金子マリから、その話、寺本さん知っているの?と言われて」、連絡したのだという。
びっくりした。山崎幹夫という名前も、タムジン以外にマキのライブを撮影した者がいたことなど聞いたこともなかった。
菅原文から連絡先を訊いて、国分寺で山崎幹夫に会った。
8ミリフィルムカメラで映像作品を撮っていた若い山崎幹夫を浅川マキが「文芸坐ル・ピリエでフィルムを回してみないか」と、誘ったという。1987年から1994年に、文芸坐ル・ピリエがクローズするまでの7年間、『浅川マキ・文芸坐ル・ピリエ公演』のほとんどを彼は撮影した、という。
知らなかった。
が、山崎監督は、マキさんの仙台坂下のアパートに打ち合わせに行った時、「さっきまで寺本さんがいたのよ、なんて聞いていましたから」と、親しげな眼をして言った。
そして、2005年頃、そろそろ人生の幕引きを考えていたマキに呼ばれて、VHSにして渡してあった全ライブ映像を「著作権はあなたにあるのだから、好きにしなさい」と返してもらった、と。
で、浅川マキが死んで月日も経ち、撮った映像をチェックしてみたら、取り憑かれたように撮ったライブ映像に、マキや共演者の生々しい表情や音が現出していた気がして、
去年の暮れぐらいから、国分寺の「giee」でデジタル化したものを、トークを交えながら上映会(1,000円+ドリンク代)をしていた、という。
さっそく、ヨーロッパに持って行くライブ映像の話をして、山崎幹夫から50分ほどの抜粋編集したDVDを送ってもらった。相棒の磯野プロデューサーに大磯の家まで来てもらって観た。
ワンカメなのだが、随所に若き山崎幹夫が、浅川マキと渋谷や川端や向井や植松、セシル・モンローらとの迫真の演奏場面にカメラごと飛び込んでいるような映像で、「これが欲しかったんだよな」と、磯野と頷きあった。
30分ほどのものに編集して、ヨーロッパ行きの細かい交渉をしてくれた、増田瑠璃がフランス語と英語の字幕をつけてくれた。
リヨンでもダブリンでも、ビデオの最後のクレジット、演出&カメラ「山崎幹夫」の名前が出たところで粒だった拍手が起きたのが、いまでも耳に残っている。
いま、もういちどこのライブ映像を見ながら、やっぱり「浅川マキが、おれたちをヨーロッパに連れて行ってくれたのだ」と、思った。
浅川マキライブビデオのタイトル画像提供:寺本幸司
≪著者略歴≫
寺本幸司(てらもと・ゆきじ):音楽プロデューサー等。浅川マキ、桑名正博、りりィ、南正人など、多くのアーティストを手がける。浅川マキは1969年に寺本氏のプロデュースにより「夜が明けたら」でデビューしている。
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