2016年02月18日
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2016年02月18日
65年にレコード・デビューして「ごめんネ…ジロー」でブレイク、4年後に出した「恋の奴隷」で鮮烈なイメージチェンジを図ってさらに歌手としての幅を広げることに成功した奥村チヨ。74年に作曲家・浜圭介と結婚して一旦第一線から退くも、80年代に入ると再びマイクを持ち、ずっと変わらぬ美貌とプロポーションでファンを魅了し続けてきた。2月18日は奥村チヨの誕生日である。
高校在学中の64年に、知人が応募したオーディションに合格し、小野薬品のドリンク剤“リキホルモ”のCMソング「昨日、今日、明日」を歌ったことが歌手になるきっかけとなった。本来、歌うのはそれっきりで、将来は服飾デザイナーになりたかったのだという。だが、そのコマソンを聴いて彼女の才能を見抜き、大阪から呼びよせて卒業後に正式デビューさせたのは、東芝レコードの草野浩二ディレクターであった。
坂本九や弘田三枝子をはじめとするスターを世に送り出し、カヴァー・ポップス全盛時代を築いた立役者のひとり、草野ディレクターは、担当していた弘田三枝子が東芝からコロムビアへ移籍することになり、その後釜となるような女性シンガーを探していた。そこでたまたまリキホルモのコマソンを聴き、“パンチのミコちゃん”と呼ばれていた弘田のハツラツとした歌声を彷彿させる声に惚れ込んで、奥村にアプローチしたのだという。翌65年3月に「あなたがいなくても/私を愛して」で鮮烈のデビューを飾るわけだが、このデビュー曲にはちょっとした秘密があって、「あなたがいなくても」のタイトルには、実は(弘田三枝子がいなくても)という裏の意味があった。諸事情により弘田の移籍を余儀なくされてしまった悔しさと、新人への大きな期待が込められていたのだった。カップリングの「私を愛して」がシルヴィ・バルタンのカヴァーだったことから、和製シルヴィ・バルタンの異名をとることとなる。カヴァーとはいえ、本家の日本盤シングルとの同時発売であった。
一般的に知名度を上げたのは、4枚目のシングル「ごめんネ…ジロー」のヒットから。フジテレビ新人奨励賞を受賞している。洋楽カヴァーも出しながら、オリジナル曲でヒットに至ったのは、やはり時代の流れであろう。それでも、11月に5枚目のシングルとなる「ジングル・ベル/赤鼻のトナカイ」のクリスマス盤が発売されたのは、先輩・弘田三枝子に倣う形となった。企画盤だけに中古市場でもあまり見かけないシングルだが、ジャケットの出来映えも含めて傑作と呼べる一枚。特に「赤鼻のトナカイ」のチャーミングさは素晴らしい。そして、67年にはザ・ベンチャーズ作曲による「北国の青い空」がヒットしてさらに活躍の場を拡げる。和泉雅子・山内賢「二人の銀座」に続くベンチャーズ歌謡のヒット曲は橋本淳が作詞を手がけ、このあとのシングル「あなたに逢いたい」「涙いろの恋」を橋本と筒美京平が続けて手がけているのも見逃せない。
そして69年にさらなる転機が訪れる。17枚目のシングルとなった「恋の奴隷」の登場である。なかにし礼による官能的な魅力溢れる詞に対し、当初奥村は歌うことをためらったというが、周囲の説得もあって情感たっぷりに歌い上げて大ヒットに至った。同じくなかにし礼=鈴木邦彦のコンビにより、「恋泥棒」「恋狂い」と、“恋シリーズ”3部作をいずれもヒットさせて、スター歌手の地位を揺るぎないものとした。「恋の奴隷」は有線放送大賞を受賞したものの、『NHK紅白歌合戦』では歌うことが出来ず、69年に初出場となった紅白のステージでは「恋泥棒」が歌われている。そのあとで再び筒美京平が作曲を手がけ、70年は「くやしいけれど幸せよ」「嘘でもいいから」「中途半端はやめて」とさらなる傑作が続いた。それぞれ、山上路夫、川内康範、なかにし礼と作詞が異なる中、個人的には川内の「嘘でもいいから」が詞・曲ともに奥村チヨのアダルト歌謡を極めた一曲と評したい。
とどめは72年の「終着駅」の大ヒットである。それまでの一連の艶っぽい楽曲から脱却するかの様なしっとりとしたバラードは、千家和也が作詞してレコード大賞作詞賞を受賞。そして作曲した浜圭介と74年に結婚して第一線から退くもマイペースな活動を続け、80年代にもリリースは途絶えずにファンを喜ばせた。90年代には熱烈なファンだったみうらじゅんがベストCD『Chiyo!コケティッシュ爆弾』を監修して新たなブームが訪れたことは記憶に新しい。何よりも、彼女の小悪魔的なキュートさを現代の女子たちが追随し、メイクやファッションをお手本としていることが、奥村チヨの最も偉大なところではなかろうか。
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