2016年09月05日
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2016年09月05日
編集長の杉岡さんから、「風のいたみ」について書いてくれませんか、と執筆依頼が来るまで、この曲のことは、すっかり忘れていた。YOU TUBEで、何度か聴くうちに、意図的に、忘れてしまいたい曲、だったと気づいた。
前にも書いたが、「私は泣いています」は、突然りりィの中に湧いて出てきた曲で、それまでのメッセージ・フォークやカレッジ・フォークと一線を画して、ブルース・テイストのロック路線をつき進んできた道筋とは、まったく異なるどちらかというと歌謡曲ともとれる、わかりやすい曲だった。
とまどったまま、りりィの歌入れテープを聴かせたら、新田チーフ・プロデューサーや武藤ディレクターは、大のノリ気で、さっそく、木田高介(りりィのサウンド・プロデューサー)のアレンジでレコーディングをした。木田らしいワルツだけどリズムのはっきりしたアレンジで、ニューハードの市原さんのクラリネットが絶品だった。
初回イニシャルが3万もついて、とまどいなんて吹き飛んで、「これは行けるぞ」と、みんな大はしゃぎになった。だが、りりィのこれまでのロック・スタイルは継承したいので、スージー・クワトロばりにベース・ギターを持って、この一曲だけは歌ってもらうことにした。ので、ジャケット撮影もベースを抱えてもらった。
3月5日に、鳴りもの入りでリリースしたら、もう3日目には、10万の追加注文がきた。
ちょうど、日本列島はオイル・ショックで経済的に落ち込んでいる時期で、新聞の一面に、トイレット・ペーパーやティッシュ・ペーパーを買い占める主婦たちの行列の写真が載り、「私は泣いています」なんて見出しが躍ったりしたこともあったのか、あっという間に、オリコン・チャートを駆けのぼり、小坂明子の「あなた」は抜けなかったが、実数87万枚の大ヒットとなった。
「私は泣いています」のヒットのおかげで、それまで厚生年金中ホールくらいだったのが、いっきょに、渋谷公会堂とか郵便貯金ホールとか2,000人以上のキャパでライブがやれるようになり、前々から、りりィをリード・ヴォーカルという位置づけにしたパーマネントのバンドを作りたかったので、キーボードに木田高介、ギターを土屋昌巳、ベースを吉田 建、ドラムに西 哲也(ファニーカンパニー)、パーカッションに斎藤ノブという布陣で「バイバイ・セッション・バンド」を結成した。名前には、その日その日を一夜限りのセッションのつもりでプレイするというロック・スピリットをこめたつもりだった。
むろん、ステージでヒット曲「私は泣いています」は、後半の大事なところでやったが、あいかわらずラストは、「心が痛い」だった。りりィは、メンバーと一つになって、ジャニスのように躰をきしませて「心が痛い」を歌いきった。
ヒット曲の後のシングル曲が大事なことはよくわかっていた。だが、りりィが「私は泣いています」の続編を書けるとも思えなかったし、もう、「りりィ&バイバイ・セッション・バンド」のノリになっていたから、りりィに、これという注文を出さないまま出来てきたのが、「風のいたみ」である。
最初に詞を読んだとき、これまで都会の片隅で膝を抱くようにして孤独と戦ってきた、りりィの面影は、どこにもない甘い言葉だと思った。が、いざ、メロディーがついて、バイバイでやってみると、これまでにないりりィの活き活きとした歌が出現した。レコーディングすることにした。B面は、ほとんどバンド演奏という感じで、タイトルも「バイバイ・セッション・バンド」である。
レコード会社のセールスマンや関係者は、「私は泣いています」とあまりに違う作品にとまどいを隠せなかったが、「行け行け」の気分があったので、15万枚のイニシャルがついた。
何とかオリコン20位ぐらいまでは行ってほしかったが、結局、40位にも届かず、返品が山ときた。
これはすべてトータル・プロデューサーである、自分の責任だと思っている。たしか、「りりィ LIVE」には、ライブ・バージョンとして収録したが、シングル・バージョンの「風のいたみ」は、この世から消えたままだ。
だが、りりィは、翌75年には、バイバイ・セッション・バンド(キーボード:国吉良一)とともに、ロサンジェルス録音で『LOVE LETER』を生み、その後、バイバイ・セッション・バンドは、坂本龍一、井上 鑑、伊藤銀次、今 剛、上原ゆかりらが参加して、『オーロイラ』『マジェンダ』などの名アルバムを残している。
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