2017年05月09日
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2017年05月09日
本日5月9日はジャズ・ピアニスト松岡直也の誕生日。
松岡直也の音楽、と聞いて最初に思い浮かぶ曲は何だろう。人によっては82年に発表されオリコン・チャート2位を記録したアルバム『九月の風』の表題曲かもしれないし、中森明菜に作曲した「ミ・アモーレ」かもしれない。或いはわたせせいぞうのアニメーション『ハートカクテル』で流れていた松岡サウンドを愛する人も多いはずだ。ライヴはもとよりCMやテレビ番組で、彼の音を耳にしてこなかった者はいないだろう。
松岡直也は1937年、横浜の本牧で生まれた。生家は本牧・小港のチャブ屋(外国人専門のあいまい宿で、1階がダンスホールとバーカウンター。2階が個室という独特のスタイルをもった店)街にあった「東亜ホテル」。7歳から独学でピアノをはじめ、15才で「パン猪狩とマーキス・トリオ」のピアニストとしてプロ・デビューを果たす。翌年には早くも自身のグループ「松岡直也カルテット」を率いて活動していたというから、相当に早熟なプレイヤーであった。この時期は、浜口庫之助率いる「アフロ・クバーノ・ジュニア」にも参加。犬塚弘・佐藤利明著『最後のクレイジー犬塚弘』(講談社)によれば、この「アフロ・クバーノ・ジュニア」にはハナ肇も一時期在籍し、その縁で60年に「ハナ肇とクレージー・キャッツ」のピアニスト・石橋エータローが病で一時休業した際、松岡はクレージーの臨時メンバーに誘われたことがあるそうだ。
この時期からラテン音楽に傾倒し、ラテン・バンドで活躍するが、その後60年代に入ると、いずみたくが主催するオール・スタッフに所属し、テレビやCM音楽の作編曲を数多く手がけている。その代表的な作品が、72年にコロムビアから発売された青い三角定規のデビュー曲「太陽がくれた季節」の編曲である。この曲はいずみたくの作曲で、日本テレビのドラマ『飛び出せ!青春』の主題歌となったことで、オリコン・チャート1位の大ヒットとなった。
70年代前半は作曲家、アレンジャーとしての仕事が中心だったが、同時に74年頃から青山のライブハウス「ロブロイ」でライブ活動を再開。ここで出会った村上“ポンタ”秀一や土岐秀史ら若い世代のプレイヤーとのセッションが実を結んだのが79年の松岡直也&WESINGのデビュー・アルバム『THE WIND WHISPERS』である。ギタリストは大村憲司で、さらに「A SEASON OF LOVE」では大村に加え高中正義もゲストで参加し、左右のチャンネルから聞こえる大村と高中のスリリングなギター・バトルは圧巻で、これにT-SQUAREの伊東たけしのテナー・サックス・ソロが盛り上げるといった趣向。ラテン・フュージョンというジャンルを確立した名盤である。
だが、大規模編成のWISINGは個々の仕事が多忙となり活動がままならなくなったため、81年のアルバム『DANSON』で一度活動停止が決定、翌82年にベスト・アルバムを発売することとなった。このアルバム『九月の風』は前述のようにインストゥルメンタルのアルバムとしては驚異的なセールスを記録、唯一の新曲として作られた「九月の風 The September Wind(You’re Romantic)」は哀愁味あふれる松岡メロディーの代表的なナンバーであり、三菱ミラージュのCMソングに起用され、一躍松岡の名が知れ渡ることとなった。同年にはニューヨーク・レコーディングの初のソロ・アルバム『見知らぬ街で/FALL ON THE AVENUE』を発表。当時、ニューヨークのラテン・ミュージシャンとジャズ・ミュージシャンが一緒にプレイすることは無かったそうで、そういった点でも画期的であったが、当時ニューヨークで全盛だったサルサを大胆に取り入れ、さらにそれまでの管楽器主体からシンプルな編成に変化したことで、松岡サウンドが大きく方向転換した盤でもある。同盤からは表題作や「タッチ・ザ・ニューヨーク・ピンク」などの名曲が生まれた。
これ以降、若手ミュージシャンを中心とした「松岡直也グループ」を結成、ここからは和田アキラ、高橋ゲタ夫、カルロス菅野、是枝博邦らを輩出している。また、84年のアルバム『LONG FOR THE EAST』の冒頭に収録された「The Latin Man」では、デビュー前の久保田利伸がヴォーカル参加している。
85年には中森明菜に作曲提供した「ミ・アモーレ」がオリコン・チャート1位の大ヒットとなり、同年の日本レコード大賞を受賞。歌物のフィールドでも脚光を浴びた。同年に発表された『SPLASH&FLASH』のジャケットは、イラストレーターのわたせせいぞうが手がけており、夏のドライブ・ミュージックとして人気の高いこのアルバムが松岡とわたせの最初の出会いとなった。これが86年10月からスタートしたわたせのテレビアニメーション『ハートカクテル』での松岡の音楽起用へと繋がっていくのだ。松岡は、わたせの画を観ているだけで次々にメロディーが浮かんできたと語っており、予定より長く2クール、音楽を担当することとなった。ここでは持ち味のラテン色は後退し打ち込みサウンドを中心にピアノをプレイ。むしろ作曲家・松岡直也の才能が全面展開しているといっていいだろう。VOL.3以降は島健や三枝成章らに交代したが、このシリーズは間違いなく松岡の代表作の1つに挙げられる。
このように、先鋭的なサウンド作りと、哀愁溢れるメロディーのもつ大衆性を共存させながら、ラテン・フュージョンのフィールドで長く活躍してきた松岡直也だが、そこには自分より年下のミュージシャンと組み、新たな音楽スタイルを自在に取り込んでいった進取の気性があった。70歳を過ぎても精力的に活動を続けていた松岡だが、惜しくも2014年4月29日、76歳でその生涯を閉じた。
没後1年半の2016年11月には、79年に発表された『KALEIDOSCOPE』が91年の初CD化以来、実に25年ぶりに復刻されている。これは松岡名義の盤ではなく、当時最先端のデジタル・レコーディングの企画盤という扱いであった。スタジオ・セッションをダイレクト・レコーディングで一発録りしたもので、ジャズ・ハーモニカ奏者の第一人者、トゥーツ・シールマンスが参加しているほか、松木恒秀、村上秀一、高橋ゲタ夫、土岐英史、向井滋春、ペッカーら錚々たるメンバーが参加しており、ダビングとミックスダウンを排することで、スリリングな一発録りならではの緊張感と、白熱した個々のプレイを堪能することができる。作曲家、プレイヤーとしての松岡の先進性を確認できる名盤といえよう。
≪著者略歴≫
馬飼野元宏(まかいの・もとひろ):音楽ライター。月刊誌「映画秘宝」編集部に所属。主な守備範囲は歌謡曲と70~80年代邦楽全般。監修書に『日本のフォーク完全読本』、『昭和歌謡ポップス・アルバム・ガイド1959-1979』ほか共著多数。
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