2017年06月07日

1969年6月7日、元祖スーパーグループのブラインド・フェイスがハイド・パークでフリーコンサートを開催

執筆者:大貫憲章

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今から48年前の1969年の6月7日、ロンドンの観光名所であり、市民の憩いの場でもある広大な敷地の公園「ハイド・パーク」で、当時まさに世界の耳目を集めたバンド、ブラインド・フェイスがそのデビュー記念のフリー・コンサートを行なった。ロックの世界に初めて「スーパーグループ」という用語を登場させ、しかもその言葉に誰もが納得した史上類い稀なロック・バンド、それがブラインド・フェイスであった。


ハイド・パークはアメリカの大都市ニューヨークにあるセントラル・パークと並ぶいわゆる「都市型公園」の双璧と言われたところで、その歴史は1820年代にさかのぼる由緒正しい王立公園で、池や丘を配した造園デザインはいかにも英国的であり、歴史や文化を感じさせるある意味、スピリチュアルな場所でもあると言える。ジェスロ・タル(1968年)に始まり、あの有名なストーンズによる伝説のコンサート(1969年の7月5日)は永遠に語り継がれる事件とも言えよう。その後も現在に至るまで多くの人気バンドが利用している。


ブラインド・フェイスは時代の寵児であった二人のスーパースターにより誕生した。クリームで天才ギタリストの名を欲しいままにした優男エリック・クラプトン(当時24才)と10代の頃からその歌声でこれまた天才と評判だった元スペンサー・デイヴィス・グループ〜トラフィックで人気を呼んだシンガー&キーボードのスティーヴィー・ウインウッド(当時21才)が合体したバンドで、そこに元クリームのドラマー、ジンジャー・ベイカーと元ファミリーのベース、リック・グレッチが加わりスタートした。世界中のロック・ファン、ロック・メデイアがそのことに興奮し、リアル・スーパーグループと大絶賛を送り、もちろんこの日本でも大いに話題になり注目された。


彼らにまつわるエピソードは多くあるが、その大半は悲観的な場面からの記述や証言で、その成功の美酒の注がれたグラスを味わうものは稀だろう。それも無理はない。彼らが活動したのはたったの3ヶ月で9月のアメリカ・ツアーの後、エリック・クラプトンが脱退することで解散となる。脱退の理由はいろいろ噂されているが、彼にとってブラインド・フェイスももはや居心地の良い場所ではなくなった、という見方が適当なのだろう。


7月に発売されたアルバム(ジャケットも裸の童女が模型の飛行機を手にした写真で物議を呼び、すぐにメンバーのピンナップに差し替えられた)は英米で1位を獲得、その人気を証明した。ただ、ツアーに関して言うなら、アルバム1枚ではオーディエンスを十分に満足させるには不十分な曲数、時間であり、そこで彼らはオーディエンスの強い要望もあり、クリームやトラフィックの頃の曲を演奏せざるを得ない状況に陥った。それにいち早く拒否反応を示したのがエリック・クラプトンで、彼はクリームの二の舞を想像しすぐに他のメンバーたちと距離を置くようになり、アメリカのツアーではジョージ・ハリスンを通じて知り合ったデラニー&ボニーの面々と意気投合し、共に時間を過ごすことが多くなったと言われる。それが彼の次のステップ、デレク・アンド・ザ・ドミノスへと続いていくことになるのだ。


他の3人はそれでも前向きで、バンドを自分なりに楽しみ、交流を深め、それぞれのキャリアに活かしていった。逆に言えば、それくらいエリック・クラプトンの魂の悩みは深く暗澹たるものであったのだろう。ナイーブ過ぎる音楽愛ゆえか、俺流を通してきた貴公子の単なるワガママか。いずれにせよ、4人にとって大きな転換点の始まりとなった。


≪著者略歴≫

大貫憲章(おおぬき・けんしょう):音楽評論家/DJ 71年大学時から音楽評論家として無名時代のQUEENやロンドン・パンクなどを紹介。76年、NHK-AM 「若いこだま」でラジオDJ活動も。現在InterFMでKenrocks Nite ver2放送中。また80年から日本初のロックDJイベント「LONDON NITE」をスタート。フリー・ロックDJの草分けで今なお現役。

BLIND FAITH CD, Import ブラインド・フェイス

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