2018年01月23日

1月23日は川村かおりの誕生日。生きていれば47歳となる

執筆者:高橋研

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1月23日は川村かおりの誕生日。生きていれば47歳。どんな女性に、母親に、アーティストになっていたのか想像してみるが、ふわっとしたまま形になって行かない。

おそらく、記憶の中の彼女が十代のままだからなのだろう。ティーンエイジの彼女はまだ母親ではなかったし、女性としてもアーティストとしても、矛盾を抱え未熟さに苦しむ不安定な生き物だった。

そして、その危なっかしさこそ、あの頃の彼女の一番の魅力だった。


初めて川村かおりに会ったのは、東名用賀インターのマクドナルド。バンド仲間やスタッフと箱根旅行へ向かう待ち合わせ場所に、ポニーキャニオンのディレクター渡辺博が連れてきたのだった。当時の彼女はロンドン郊外の寄宿学校の高校生で、両親はモスクワで暮らしていた。そんなわけで東京滞在中は渡辺宅を常宿にしていたのである。

辻仁成プロデュースのデビューアルバム『ZOO』をリリースした頃で、次回作のプロデューサーとして名前の挙がった私に会わせておきたい、という渡辺博の思惑があったように思う。

人懐っこい笑顔で、一回りも年の離れた我々ともすぐに馴染んだ。年上の心に入り込むのが上手な娘だった。また会おうと約束して、私は高速に飛び乗った。


それから程なくして、セカンドアルバム『CAMPFIRE』の制作に取り掛かった。マクドナルドでかおりと知り合ったバンドの連中がレコーディングやライブの中心メンバーになった。

音にうるさいミュージシャンたち。そのうちの何人かは、かおりの歌唱力やリズム感に疑問を感じていた。次第に距離を置き始めた人間もいた。実際、音程はおおよそ曖昧で、発声はいいかげんだった。ライブでギターを弾きたがったが、それもまた人前で披露できるような代物ではなかった。


エキセントリックな風貌と、十代の心の揺らぎ。その存在は支持されつつあったが、音楽家としては未熟なままだった。周囲は力を貸そうとしたが、彼女がスキルを磨くために時間を割くことはほとんどなかった。恋人や友人たちと過ごす時間の方が大切だったのだ。たいていの若者がそうであるように。


そんな中、私はあれこれ言わずにいた。不得手がすぐに得意になるわけがないし、なにより真面目に取り組むかおりを想像できなかった。彼女の詞のノートはバラバラの落書きでしかなかったし、夜遊びのせいでレコーディングに声が出ないこともよくあった。


ただ、新曲が出来ると、かおりは的確に歌の世界観を捕まえることが出来た。歌い手としてはまだまだでも、表現者としての天性があった。

檻の中に入れてしまうより、新宿ツバキハウスあたりでワイワイやっている方が、瑞々しさを失くさずにいられるのだろうと思った。


そののち数枚のアルバムを作り、20歳になったかおりと私は袂を分かった。


ガンを発症し、最後になってしまった渋谷CCレモンホールのコンサートで再会を果たす。


リハーサルを終えて一息ついた。あの頃と変わらない照れ笑いに向かって、一言おくった。

「かおり、歌上手くなったな」。


≪著者略歴≫

高橋 研(たかはし・けん):1979年キャニオンレコードより『懐かしの4号線』でデビュー、以降2枚のアルバムをリリースしライブ活動に励む一方、元来興味を持っていた映画にも参加。しかし1981年のsg『さよならロンリネス』を最後に歌うことをやめて、約2年間、レコード会社の宣伝マンとして過ごす。その後徐々に楽曲づくりを再開し、1983年アルフィーの『メリーアン』の高見沢俊彦氏との共同作詞を皮きりに作詞・作曲家として作品提供を始める。その後中村あゆみ、川村かおり、加藤いづみをはじめ 数多くのアルバム・プロデュースに加え多彩なアーテイストに楽曲を提供し、シンガーソングライター及びプロデューサーとして独自のスタンスでの活動を続けている。

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