2018年01月24日
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2018年01月24日
本日1月24日は、ジュディ・オング68回目の生誕記念日である。
ジュディの名前を聞くと、世代問わず「魅せられて」のイメージが真っ先に想起されると思うが、1979年度レコード大賞を獲得したこのメガヒット曲は、彼女にとって通算27枚目のシングルであり、それまでの芸能活動でこつこつ築きあげたネームヴァリューと楽曲の良さの融合が招いた偉業である。さて、レコード活動に的を絞ってみれば、彼女のルーツはどこにあったのだろう。今回のコラムでは、そんな初期の彼女の魅力に迫ってみたい。
ジュディのレコードデビューは、16歳の時、66年5月にコロムビアから出した「星と恋したい」である。2歳の頃から日本に滞在し、異国情緒を多少漂わせつつ親しみやすいキャラクターを生かしたタレントとして知名度を上げていた最中でのデビューであった。デビュー曲では、フランス・ギャル(R.I.P.)を青春歌謡風に料理したような曲調をこなし、2曲目「バラの花嫁さん」(66年10月)では中華ルーツを濃厚に反映した楽曲に取り組むなど、作曲家として迎えられた市川昭介共々暗中模索に入っていた感は否めないが、哀愁エレキ・サウンドに彩られた4枚目のシングル「たそがれの赤い月」(67年7月)で一歩抜け出る。オリコンチャート集計開始からわずか前の発売だったので、具体的記録が残っていないのが惜しいが、この曲がコロムビア時代に出した19枚のシングルの中では最大のヒットとされている。
この後は比較的地味なレコード活動を強いられることになるが、実は彼女の真骨頂はここからである。「魅せられて」のイメージに囚われたせいか、再評価の機会に恵まれることがなかった初期ジュディの隠れた偉業に突如スポットが当たったのは、95年夏、黒沢進・中村俊夫両氏の監修による、GS色濃厚な女性歌謡曲(所謂「一人GS」)を集めたコンピ・シリーズ『60sキューティ・ポップ・コレクション』がレコード会社7社よりリリースされた時である。中でもコロムビア編『Psychedelic Town Edit』は、最早GS時代の女性歌謡3大レアシングルの一角となってしまった万里れい子「サイケな街」や、69年当時は未発売で終わりつつ、このコンピでの発掘をきっかけに3度も海外でリリースされるなど世界的クラシックと化したJ・ガールズ「黄色の世界」などが収録された重要盤だったが、そこに何と7曲も、ジュディの楽曲が収録されていたのである。
「サイケな街」に続く同コンピの2曲目に抜擢された「愛する人に」は、8枚目のシングル「ひらがなふたつ」(68年5月)のB面。68年にしてはアナクロとさえ思える、青春歌謡の定型から抜け出ていないA面から裏返すと、いきなり鳴り響く米国南部のガレージバンド的グルーヴに仰け反る。まるでバニーズの「レッツ・ゴー・シェイク!」からサンプリングしたような「バババ」のアクセント感、歌詞の隙間から溢れ出る絶叫からは、マイクの前でお茶目に舞い踊る彼女の様子が伝わってきそう。この一曲でジュディ観を改めた方は決して少なくないはず。
この曲と同時にリリースされた「ふたりの季節」は、初めて市川昭介の手を離れ、作詞作曲共手がける才女として株を上げていた万里村ゆき子が手がけた東六甲のキャンペーンソング。エレキ歌謡とドメスティック感覚溢れる歌詞の融合が何とも不思議な一曲だ。GS時代ならではのエレキサウンドが哀愁を助長する7枚目のシングル「悲しみの十字架」(68年2月)は、同系統のB面「涙ぐむ星空」共々同コンピに選出されている。王道歌謡系のSAS品番からポップス系のP品番に移籍する前のラストシングルで、10枚目「さようなら17才」(68年9月)のB面「素足の青春」は、ファズがじりじり焼き付けるサイケな逸品。続く「初めての別れ」(69年1月)のB面「風のジェラシー」はよりGS色濃厚だが、こちらは惜しくも選曲から外れている。さらにデビュー曲のB面「恋ってどんなもの」まで、サイケ時代以前の洋楽系純情ポップスの代表例として選曲されているのだ。同曲は同時期に台湾を活動本拠地としていたテレサ・テンが中国語でカヴァーしていることも知られているが、90年代初期に起こったワールド・ミュージック人気の煽りにより、初期テレサを筆頭とする60年代中華系歌姫の活躍が改めて見直され始めたのも、『キューティ・ポップ・コレクション』発売とほぼ同じ頃のことだ。それ故に、初期ジュディの再発見は、然るべく行われたことだったのかもしれない。
GS黄金期を抜けた後は、「涙のドレス」(69年3月)を皮切りに筒美京平作品に多数取り組み、次なる充実期へと向かう。『キューティ・ポップ・コレクション』の選曲対象からは外れたものの、筒美作品ならではの時代先端感とジュディの表現力により、力作がいくつも生まれている。のちに「魅せられて」に結実する幸せな融合の萌芽は、紛れもなくこのコロムビア後期なのだ。
そして、この時期の彼女のシングル・ジャケット。いずれも彼女の魅力を最大限に見せつける二つ折仕様で素晴らしい。レコード店に並んだ状態だと、腰から上しか拝めないが、買って帰って開いてみれば、2倍どころか20倍美味しい。やはり、商品って魅力的だなと思う。
筆者の監修で昨年リリースした『コロムビア・ガールズ伝説 EARLY YEARS』からは、「72年以降のアイドル歌謡絶頂期を予感させる」というテーマに沿う楽曲を一つに絞り辛いのと、既にシングル曲をまとめた充実コンピレーションがリリースされているという理由で、弘田三枝子、金井克子、そしてジュディ・オングの楽曲を泣く泣くオミットしてしまったが、『60sキューティ・ポップ・コレクション Psychedelic Town Edit』はオンデマンドCDであればまだ入手可能である。『EARLY YEARS』の偉大なる「姉貴分」として、絶対的にオススメの一枚だ。そして、願わくば『ジュディ・オング・しんぐるこれくしょん』も是非見つけていただきたい。コロムビア時代の全楽曲がまとめられたマストな2枚組だ。
ジュディ・オング「ふたりの季節」「涙のドレス」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
丸芽志悟 (まるめ・しご) : 不毛な青春時代〜レコード会社勤務を経て、ネットを拠点とする「好き者」として音楽啓蒙活動を開始。『アングラ・カーニバル』『60sビート・ガールズ・コレクション』(共にテイチク)等再発CDの共同監修、ライヴ及びDJイベントの主催をFine Vacation Company名義で手がける。近年は即興演奏を軸とした自由形態バンドRacco-1000を率い活動、フルートなどを担当。 5月3タイトルが発売された初監修コンピレーションアルバム『コロムビア・ガールズ伝説』の続編として、新たに2タイトルが10月25日発売された。
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