2018年03月29日
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2018年03月29日
「ダンシング・クイーン」までの道のりは、そんなに短くも平坦でもなかった。アバ結成の基となる男性デュオがビョルンとベニー。本国スウェーデンを除けば、世界のどこよりも早くふたりの存在をヒット・シングルを通じて認識したのは、日本かもしれない。
1972年3月に国内総合シングル・セールス・ランキングで彼らの「木枯らしの少女」は堂々の第7位を記録している(同週の1位は「ちいさな恋/天地真理」)。このヒットの布石となったのが,前年71年11月に行なわれた第3回世界歌謡祭だった。ビョルン・アンダーソンとベニー・ウルヴァースは”ベニー・アンド・ビョルン”としてオリジナル曲「サンタ・ローザ」で参加し、日本のマーケットでの可能性と自信を得ていた。
すでにヘップ・スターズやフーテナニー・シンガーズといったプロのグループで本国でのキャリアを積んでいたふたりにとって、世界市場で勝負するにはさらなる展開が必要だった。彼らのパートナーでそれぞれがやはりスウェーデンで確固たる地位を築いていたアグネタ・フォルツコグとアンニフリッド(フリーダ)・リングスタッドの女性陣をコーラスに迎え、ヴォーカルのヴァリエーションが大幅に広がったところから、いっそうの万能性を発揮するポップ・ユニットへと向かう。
72年6月の”ビョルン&ベニー、アグネタ&アンニフリッド”としてのシングル「ピープル・ニード・ラヴ」を経て、73年の「リング・リング」から、メンバーの頭文字を並べ正式にABBA=アバと名乗ることになる。74年、ユーロヴィジョン・ソング・コンテストにて優勝を果たし、その曲「恋のウォータールー」が全英第1位に輝き,アメリカでも第6位まで上昇した。ちなみに日本では「木枯らしの少女」の実績からか、「恋のウォータールー」はビョルンとベニー名義でシングル発売されている。
その後イギリス/ヨーロッパなどでは「ハニー・ハニー」「アイ・ドゥ、アイ・ドゥ」「エス・オー・エス」「ママ・ミア」「悲しきフェルナンド」といったヒットで人気を確立したが、これらはいずれも大国アメリカではトップ10に到達していない。アバは通算第4作となるオリジナル・アルバム『アライヴァル』で勝負をかけるべく75年夏からレコーディングにとりかかり、まず「ブーガルー」と仮に名付けた曲を作った。やがて空前のムーヴメントとなるディスコ・ミュージックの早い時期の傑出した作品として記憶されるジョージ・マックレーの「ロック・ユア・ベイビー」(74年7月の全米No.1)を参考に、その柔軟なドラム・パートをリズムのインスピレーションとしてビョルンとベニーが「ブーガルー」を書いたのは慧眼だった。タイトルは、「ダンシング・クイーン」に変更される。まだ未完成のバッキング・トラックをテープで耳にしたフリーダは”泣き出すほど美しい曲だと思った”と振り返り、アグネタは”ヒットするってすぐに確信した”と述べている。「ダンシング・クイーン」の完成までには結局4ヶ月を要した。
1976年。ひとつ前の「ママ・ミア」が軽快な作品だったのを考慮し、3月にまずミドル・テンポの佳曲「悲しきフェルナンド」を先行させ、次いで8月に満を持して「ダンシング・クイーン」を発表。全米チャート・インは12月。年を越して、ポップ・ラジオ局での好反響がセールスにも波及するとランキングの動きは加速し、77年3月19日付けでグループ史上初となるトップ5の壁をぶち破った。3月29日にRIAA(Recording Industry Association of America=アメリカ・レコード協会)により、50万枚を超えるセールスを認定されゴールド・シングルを獲得すると、4月9日付けでついに全米No.1に輝く。アバとしてのスタートから4年の歳月をかけてたどり着いた場所だった。
「ダンシング・クイーン」は、高度で巧みなヴォーカル・コーラス・ワークを織り込み精緻に重層的なレコーディング技術を注いだところも後年改めて評価を得たことで、ポップスのスタンダードとみなされていく。日本においても、それ以前グループに対するよりも曲それぞれがラジオ好きの洋楽ファンから支持されていた印象だったのに比べ、この大ヒットから明らかにアバそのものの支持者が莫大な数で生み出されて行くようになる、そんな、大きな分岐点だった。
≪著者略歴≫
矢口清治( やぐち・きよはる):ディスク・ジョッキー。1959年群馬生まれ。78年『全米トップ40』への出演をきっかけにラジオ業界入り。これまで『Music Today』、『GOOD MORNING YOKOHAMA』、『MUSIC GUMBO』、『ミュージック・プラザ』、『全米トップ40 THE 80'S』などを担当。またCD『僕たちの洋楽ヒット』の監修などを行なっている。
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