2016年06月02日
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2016年06月02日
1970年6月、カーペンターズが初来日した。
当時、私はキングレコードで洋楽の担当ディレクターになって、3年目の頃、いくつかのレーベルを担当していましたが、その中にアメリカはロサンゼルスにあるA&Mレコードがあり、カーペンターズはそこに所属していました。
当時の状況は、本国アメリカではそこそこのデビューでスタートしたのですが、第2弾シングル「遥かなる影」が大ヒットして以来、発売するシングルはすべて全米チャートの上位にランク・イン。初来日の頃は、大型新人としてスターの仲間入りをしていました。
つらいのは日本側担当者の私です。いろいろなキャンペーンもやりましたが、ヒットとはなりませんでした。そして、初来日を迎えたのです。二度目の来日からはご一行、30人~40人の大所帯でやってきましたが、初来日の時は、カレン&リチャード、バンドメンバーにマネージャーという少人数でした。初来日は、単独公演の為ではなく、「ヤマハ世界歌謡祭」のゲストとしてのものでした。
主催はヤマハ、招聘は青山音楽事務所。場所は日本武道館。時は1970年6月2日。あの時のなつかしい楽しい思い出が一つあります。
アメリカで普段一緒に仕事をしているクルーが今回は日本に来ていません。従って、最後のステージ創りはメンバー自らがやらざるを得なくなりました。ステージングをみていた私のところに、「カレンが呼んでいる」との声がかかり、飛んで行ったところ、ドラムスのセッティングを手伝って欲しいとの頼みでした。二人で金づちを持ち、創り上げました。楽しかった。
“明と暗”の話に戻ります。“暗”は、二つありました。一つは8000人ほどいたお客の中には、カーペンターズ・ファンはもとよりカーペンターズを知っている人がほとんどいなかった。当然ですが世界歌謡祭を見に来た人ばかりです。
もう一つは、世界歌謡祭の第1回目ということで予定していた進行が2時間近く遅れました。確かではありませんが、カーペンターズの音が出たのは夜10時半過ぎ。恐ろしい光景が始まりました。今では考えられませんが、カーペンターズの演奏が始まった途端、お客が帰り始めたのです。帰りの電車のこともあったのでしょう。私はその時、ステージ横にいたのですが、ステージからは武道館の階段を出口に向かって歩くお客の後ろ姿しか見えません。長く音楽業界に生きてきて、一生一に回の経験でした。この日の私は固く決心しました。日本でナンバー1にして見せる。一人も帰らない武道館コンサートをやって見せると。その夢は実現しました。
さあ、“明”の話をします。ほとんど帰ってしまったお客の他に音楽業界のオピニオン・リーダーたちがいました。音楽評論家、ラジオ・ディレクター、TVディレクター、日本のミュージシャン、作曲家、アレンジャーの先生方です。皆の想いは一つ。レコードであの完璧ナサウンドがライブで実現できるかどうか、でした。リチャードは素晴らしかった。あの音がしっかり出ました。
後にあのコンサートを悪く言う人に一人も出会いませんでした。そして、カーペンターズのコンサートを、ガラガラの武道館で最後まで残ってくれた業界のオピニオン・リーダーの皆さんが、後にカーペンターズを日本でもスターにしてくれたのです。
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