2019年05月28日
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2019年05月28日
本日5月28日は、戦後日本の大衆音楽の象徴たる偉人、筒美京平が生まれた日。今年で79歳を迎えるというのに、その「現役感」は尚も衰えずなのだから、まさに驚異的の一言に尽きる。この人のいない音楽界を想像するのがむしろ怖い。
彼の偉大なる業績については、あらゆるところで書かれすぎているので、今更筆者がそれを繰り返す必要などないであろう。あくまでも、筆者の視点からということで、平成最後の日のコラムの続きのような話に持って行く前に、やはり個人的HITSTORY傍観史から始める必要はあるだろう。1998年にレコード会社各社から一斉にリリースされた『筒美京平ウルトラ・ベスト・トラックス』のライナーで、先輩方が記していたように。
筆者が4歳とかそのくらいだった頃、初めて道を開いてくれた玩具が何かといえば、他でもない「ブルー・ライト・ヨコハマ」のシングル盤だった。プレイヤーに乗せて、針を落とせば音が出る。そこから流れ出る音の魅力的さったら。テレビでいしだあゆみが歌う姿を見るより、そのメカニズムの方が感動的だった。裏返すと「明日より永遠に」という、テレビでは聞けないけどまた素敵な歌が入っていたり。レコードとは、かくも素晴らしいアイテムなのかと認識した。
(蛇足だが、当時から子供服のカタログなんかを見ながら勝手にアイドル像を妄想して、それがエスカレートして「フニル」という妄想国家の音楽物語を長い間描いていた筆者だったが、その名称は「ブルー・ライト・ヨコハマ」のタイトルの最初の2文字を誤読したことから与えられた、ということになっている。)
そのレコードのレーベルに記された「筒美京平」という名前の読みも、「作曲」の意味も当然解らなかったけど、「雨がやんだら」「また逢う日まで」「17才」など、その4文字が記されたレコードが手許に増えていって、またテレビまんが「サザエさん」のスタッフロールにまでその4文字を見つけて、あ、この人は凄い人なのかもしれない、と思い始めるのだった。何をする人なのかが具体的に解ったのは、恐らく「わたしの彼は左きき」とか「男の子女の子」が流行った辺りである。作曲家として、ベートーヴェンとかバッハとかの名前を認識し始めた頃だ。「筒美京平」とは、それら偉人の現在進行形なんだな、と。
と言えども、「スター誕生!」の審査員を務めていた阿久悠先生や都倉俊一先生のように、決して表舞台には顔を見せない。専業作曲家になる前に、日本グラモフォン洋楽部で担当ディレクターを務めていたラヴィン・スプーンフルの曲名を借りれば、まさに「He's Still A Mystery」。そんな状態が、恐らく80年代のある時期まで続いた。歌謡曲とはアカデミックな接し方も可能だということを、時代の流れが教えてくれた頃である。勿論その頃にも、彼の勢いは衰えていなかったけど、耳の肥えた若い洋楽ファンが彼の当時のヒット作の「元ネタ」を指摘する機会が増えてきて、個人的にも「それはちょっとなぁ」と思い始めていたのは否めない。
そして、再び歌謡曲の泥沼へと足を踏み入れるに至り、幼い頃には見えて来なかった隠れた偉業の数々が、次々と救済されていくのである。それ以来、数多のコンピレーションCDや研究書が世に出たことにより、筒美大宇宙はかつてより遥かに手の届きやすい状態になった。と言えども、筆者としてはここでこそ意表をついた迂回路へと向かうのである。そう、「歌のない歌謡曲」の出番だ。
昭和40年代初期、「歌無歌謡」ビジネスがまさに出たとこ勝負だった頃は、作曲のみならず編曲・演奏にも即戦力を発揮できる音楽家に対する需要が只者ではなく、京平先生もキングからの『チェンバロ・デラックス』シリーズを始め、その手の仕事に頻繁に駆り出されている。やっつけ仕事とはいえ、流石にクォリティは高く、彼が編曲家ないし演奏者として関わった盤の多くは、「歌無歌謡」レコードの中古相場スタンダードからすると天文学的な価格で取引されているのが現状なのだ。しかし、その超人ぶりを改めて伝えてくれるのは、寧ろ制作面に彼が関わっていないレコードの方だと思う。特に1972年(昭和47年)前後のものは凄い。
一例をあげよう。72年4月にワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)からリリースされた『恋の追跡/瀬戸の花嫁 華麗なるドラム・ベストヒット20』。当時の代表的ヒット曲20曲が、ドラムを前面に出した演奏で畳み掛けられる1枚だが、収録曲20曲中半数の10曲が筒美作品であり、打率5割という驚異的な存在感を見せている。「恋の追跡」「雨のエアポート」 (欧陽菲菲)、「かもめ町みなと町」 (五木ひろし)、「ともだち」 (南沙織)などの大ヒット曲は勿論、「お別れしましょう」 (朝丘雪路)、「今日からひとり」 (渚ゆう子)といったスリーパー的な曲の存在が、いいアクセントになっている。ちなみにこの時代のもう一人の覇者、平尾昌晃は、表題曲となった「瀬戸の花嫁」1曲のみ選出。鈴木邦彦が3曲、森田公一、都倉俊一が各1曲といった具合だ。このアルバムを始め、70年代ロック革命を先導したワーナーらしい先鋭的な音作りを特徴とする「ワーナー・ビートニックス」名義のアルバム群のディレクターを務めたのは、バンド在籍当時「愛なき夜明け」を京平先生より提供されたこともある元アウト・キャストのベーシスト、大野良治である。同バンドに在籍していた(但し「愛なき夜明け」発表時には脱退していた)穂口雄右も、「雨のエアポート」「ともだち」の編曲で関わっている。
とにかく、余程演歌かフォークに特化していない限り(実際にはいずれのジャンルの歌手にも、大ヒット曲や隠れた名曲を提供した例は数多にあるが)、手許に集まった「歌無歌謡」のアルバムに筒美作品が収録されていない例はまずないし、オリジナル版を聴くのと一味違う新鮮な体験ももたらす例も多く、聴きものを挙げていったらキリがない。実際お聴かせする機会に恵まれたいものだ、としか言いようがない。それこそ「時代を映す鏡」の一言に尽きる。
特に、こういった発掘作業を通して、「あ、こんな隠れた名曲もあったんだ」という再発見をした時の快感ったらない。筆者にとっての代表例を1曲挙げよと言われたら、まず渚ゆう子「風の日のバラード」となる。72年7月発売、オリコン最高25位と、当時の勢いからすれば決して目立つヒット曲ではなかった故、リアルタイムでの印象も薄かったのだが、ワーナー・ビートニックスだけでも3種類のヴァージョン、その他合わせて6ヴァージョンが手許に集まり、いずれも名演となっている。やはり原曲の良さ故であろう。もっとも、マイナーレーベルのものになると、その寂れ感が京平先生の洗練された作風についていけず、ずっこけたとしか言いようのない演奏に遭遇する例もいくつかあるのだが…。
さて、来年には80代の大台へと突入する筒美京平にとって、「令和」はどんな時代になるのだろう。奇跡的な新曲を聴きたいという思いはあるし、昭和から平成へとヒット曲のバトンが受け継がれた「17才」が3時代目の偉業達成なるかという期待もほんのりある。何よりもまず、長生きしてくださいねと、そう願わずにいられない。
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