今日11月27日は、歌手・真木ひでとの誕生日。60年代に巻き起こったグループ・サウンズ(GS)・ブームのピーク時にオックスのヴォーカリスト野口ヒデトとして鮮烈なデビューを飾り、タイガースのジュリー(沢田研二)、テンプターズのショーケン(萩原健一)と共に<GS三大アイドル>と呼ばれたヒデトも65歳を迎えた。
GS出身ヴォーカリストの中でも、沢田研二、堺正章、湯原昌幸などと共に数少ない現役組のひとりで、すでにソロ・シンガーとしてのキャリアは44年にも及ぶ。その間、ソロ初ヒットとなった「夢よもういちど」(75年)をはじめ、「恋におぼれて」(76年)、「東京のどこかに」(76年)、「雨の東京」(79年)、「しあわせうすい女です」(81年)、そして、オロナミンCのCMソングとして話題を呼んだ「元気の星」(91年)等、寡作ではあるがコンスタントにヒットを放ち、地道なライヴ活動でオックス時代からのオールド・ファンはもちろん、「夢よもういちど」以降の演歌ファン、「元気の星」で知ったという新しいファンなど幅広いファン層で構成された一定の観客動員数を保持。すでに歌手として大ベテランの域に達した息の長い活動を展開している。
1950年、福岡県田川市に生まれた真木ひでと(本名・野内正行)のプロ・シンガーとしてのキャリアは、16歳の時に横山ノック、上岡龍太郎が在籍していたことで知られる漫才グループ「漫画トリオ」のバック・バンド「木村幸弘とバックボーン」にヴォーカリストとして参加したことからスタートする。最初の芸名である「野口ヒデト」はこの時から使っており、彼が尊敬する「野口英世」がその由来であった。
間もなくして、67年9月に「アイ・ラヴ・ユー」でデビューしたGS「キングス」を脱退したばかりの福井利男(ベース)と岩田裕ニ (ドラムス)に新グループのメンバーとして誘われるが、バックボーンに参加してからまだ数カ月しかたっていなかったこともあって返事を保留。その間に福井と岩田は、京都のジャズ喫茶『田園』に出演していた「マッコイズ」のメンバーだった岡田志郎(ギター)と杉山則夫(ギター)、大阪のダンスホール『富士』のハウスバンド「ハタリーズ」でオルガンを弾いていた赤松愛(オルガン)に、京都のバンド「サンダース」のヴォーカリスト栗山純を加えた新バンドの活動を開始した。67年11月のことである。
12月1日より大阪のジャズ喫茶『ナンバ一番』にレギュラー出演することになり、バンド名も「オックス」(由来は諸説あるが、英語表記が“マル”と“バツ”で簡単だからという説が有力)に決定。人気も日毎に上昇していった。12月28日にはバックボーンを脱退したヒデトが参加。翌68年1月には杉山と栗山が脱退し、ここに栄光の5人編成オックスが誕生するのである。
新生オックスは東京進出を第一目標に掲げ、先ずサベージやパープル・シャドウズの所属事務所「ゼネラル・アート・プロデュース(GAP)」(のちにホリプロと合併)と契約。ビクターからのデビューも決まり、3月に上京して筒美京平・橋本淳コンビによるデビュー曲「ガール・フレンド」をレコーディング。68年5月5日にリリースされたこの曲は、スローペースながら着実にオリコン・チャートを上昇し続け、31週間チャートイン、最高位6位にランクされるヒットとなるのである。
以後「ダンシング・セブンティーン」(68年9月)、「スワンの涙」(68年12月)とヒットを連発。GSブーム最盛期にデビューした後発組ながら、タイガース、テンプターズに続く超人気アイドル・グループとして活躍したオックスの名を世間に知らしめたのは、感情移入過多な熱唱と激しいアクションで聴衆を惹き付けたヒデトと、当時としては衝撃的な中性的ムードと妖艶さを漂わせていた赤松愛がステージ上で熱狂のあげく気を失い倒れ込むという「失神パフォーマンス」だった。
他のバンドで前例の無いステージ・パフォーマンスということで思い付き、オックス結成当初から秘かに<練習>をしていたというあくまでも演出上の「失神」だったが、ライヴ会場では連鎖的に失神するファンが続出。救急車が出動する騒ぎが相次いだ。事態を重く見た教育委員会やPTAが中高生のオックス公演入場禁止を勧告するなど社会問題までに発展。<失神>は当時の流行語になったほどである。現在でも<オックス>と聞いて、すぐに<失神>を連想される方はかなり多いのではないだろうか。
レコード・デビューのちょうど1年後69年5月5日には赤松が失踪・脱退。後任として大阪のグランプリズというバンドにいた田浦幸(のちの夏夕介)が加入して活動を続けるも、GSブームの終焉などもあり人気も下降する一方の中でオックスは71年5月に解散した。その後、同年8月にヒデトは「野口ヒデト」名義で初ソロ・シングル「仮面」をリリース。72年には「野口秀人」名義でシングル2枚(「他に何がある」「夜空の笛」)とアルバム『ひでとからあなたに』をリリースしたが、やがて所属事務所も退め数年のブランク期間となってしまう。
歌手引退も考え始めていた75年6月に最後の挑戦と思い、『全日本歌謡選手権』(日本テレビ)に出場。見事10週を勝ち抜き、第38代チャンピオンとなりった。この時、作詞家の山口洋子から贈られた芸名が「真木ひでと」だったのである。その後の活躍は前述のとおり。今年(2015年)は真木ひでと改名40周年ということで、12月12日には久々のクリスマス・ディナーショー(於・大阪リバーサイドホテル)も開催されるという。ところで、往年の野口ヒデトとキスマイ(Kis-My-Ft2)の藤ヶ谷太輔が似てると思うの、筆者だけ?
GOLDEN☆BEST 真木ひでと 陶酔炎歌 真木ひでと