2015年10月24日

やがてGSシーンの頂点に君臨する京都出身の5人組ザ・ファニーズが<栄光の旅>への片道切符を手に入れた日…。

執筆者:中村俊夫

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1965年1月2日、二度目 (所謂オリジナル・フォーと呼ばれる4人編成では初) の来日を果たしたザ・ベンチャーズは、前年「太陽の彼方に(Movin’)」のヒットで日本でもブレイクしたジ・アストロノウツと共に、3日の東京厚生年金会館ホールを皮切りに13日の札幌市民会館ホールまで全国5カ所7会場を廻るツアーを開始。前年からくすぶり始めたエレキ・インスト・ミュージックの火種は空前のエレキ・ブームへと一気に燃え盛り、やがて全国各地でアマチュア・エレキ・バンドが産声を上げる大きなきっかけとなる。


5日の大阪フェスティバル・ホール公演を観て感銘を受けた京都在住の4人の高校生が結成した「サリーとプレイボーイズ」も、そんな状況下で誕生したアマチュア・エレキ・バンドのひとつであった。メンバーは岸部修三(ベース/のちの岸部一徳)、森本太郎(サイド・ギター)、高橋克己(リード・ギター/のちの加橋かつみ)、人見豊(ドラムス/のちの瞳みのる)。全員幼馴染みや同級生といった関係で、もっぱら京都四条河原町にあったダンス喫茶(ディスコとジャズ喫茶をミックスしたようなもの)『田園』に屯する遊び仲間だった。


猛練習の末「パイプライン」「ウォーク・ドント・ラン」等のレパートリーを習得し、岸部の兄の結婚披露宴や友人主催のダンス・パーティーなどに出演して腕を磨いていった彼らだったが、65年秋頃にはビートルズをはじめとする英国のビート・グループ(日本では<リバプール・サウンド>と呼ばれた)の影響からヴォーカリストの必要性を感じ、友人の勧めもあって『田園』にレギュラー出演していたサンダースというバンドのシンガー沢田研二に声をかける。


岸部たちの誘いに最初は返答を保留にしていた沢田だが、旧態依然としたロカビリー・バンドだったサンダースの将来性に疑問を抱いていたのと、4人いた専属歌手の序列の一番下でバンドボーイも兼任だった処遇への反発もあり、翌66年1月1日、すでに「ザ・ファニーズ」と改名(名付け親はザ・リンド&リンダースの高木和来)していた岸部たちのバンドに正式参加する。当時、沢田は17歳。新しいバンドに人生を賭ける意気込みからか、卒業まで一年を残しながら前年暮れに高校(府立鴨沂高校)を中退している。


当時バンドの仕事場の代表格だったジャズ喫茶やダンスホールの絶対数が少ない京都に限界を感じたファニーズは大坂に活路を求め、66年1月16日、大阪道頓堀界隈にあるジャズ喫茶『ナンバ一番』 のオーディションで、デイヴ・クラーク・ファイヴの「Do You Love Me」とビートルズの「I Saw Her Standing There」を演奏し見事合格。2月からレギュラー出演するようになる。当初は週2回(客の少ない平日)一日30分ステージを5回、ギャラは一日5人で7千円という待遇だったが、徐々に人気を集め土日の出演が増え月給も5人で10万円にアップ。旧知の友人で大阪ビートルズ・ファンクラブ会長だった森ますみによって会員数300人ほどのファンクラブも結成され、やがては同店の先輩バンド、キングス(のちにオックスを結成する福井利男と岩田裕二が在籍)、リンド&リンダースを凌駕するほどの人気バンドに成長していったのである。


66年6月18日、ファニーズは『ナンバ一番』で内田裕也率いるブルー・ジーンズの前座を務めた。若さ溢れるファニーズのステージに興味を抱いた内田裕也は、その後、ブルー・ジーンズのマネージャー中井國二、その上司の池田道彦など渡辺プロダクションのスタッフと共に何度か来阪してはメンバーと接触し上京を打診。ファニーズもプロ・デビューのチャンスに喜んだ。実はすでにザ・スパイダースのマネージャーや70年代に西城秀樹、安西マリア等のプロデューサーとして名を馳せる上条英男からも話が持ち込まれてはいたが、ファニーズとしては当代一の芸能事務所であり、何よりもテレビ番組へのブッキング力が圧倒的だった渡辺プロダクションからのオファーに飛びついたのである。


66年10月9日、『ナンバ一番』で渡辺プロダクションの正式なオーディションが行なわれた。審査に立ち合ったのは、松下治夫制作部長、中井國二、内田裕也、尾藤イサオ、チャーリー石黒といった面々。「Do You Love Me」「Nowhere Man」等を演奏したファニーズは緊張のあまり演奏ミスを連発したが無事合格し、10月21日に渡辺プロダクションから正式に採用通知を受け取った。こうしてプロ・デビューが決まったものの、最後に思わぬ難関が待ち構えていた。森本太郎の母親が一人息子のプロ入りに猛反対したのである。メンバーの中で唯一高校を中退していなかった森本に、母親としては大学に進学して将来は堅実なサラリーマンの道を歩んでくれることを望んでいたのだろう。


最終的には岸部の父親が森本の母親を説得し、いよいよ渡辺プロダクションとの契約調印日を迎えた。ちょうど49年前の今日1966年10月24日(26日説もある)のことである。調印場所は京都祇園花見小路にある旅館『菊梅』の2階。渡辺プロダクション側から松下、池田、中井の三氏、ファニーズのメンバー5人、そしてメンバー全員未成年だったことからそれぞれの親たちが出席し契約書が交わされた。ちなみに契約書に明記された初任給はひとり6万円。当時高卒銀行員の平均初任給が2万2千円だったことを考えると、なかなかの厚遇 (東京での家賃も事務所持ちだった)と言えるのでないだろうか。

 

10月29・30日の二日間に亘って『ナンバ一番』で開催された「ファニーズさよなら公演」は延べ800人のファンが集まり別れを惜しんだ。この公演のラストで演奏したのは「蛍の光」を原曲とするハーマンズ・ハーミッツの「I Understand」。その後ザ・タイガースと改名後も彼らのステージのラストを飾った曲である。そして、それは、<ザ・タイガース・サクセス・ストーリー第二章>の序曲でもあったのだ。

写真提供:中村俊夫

ザ・タイガース

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