2015年09月25日
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2015年09月25日
芸能雑誌が読者から詞や曲名を公募する所謂<募集歌>。古くは1945年11月創刊の『平凡』が1952年に誌上で歌詞を募集した「平凡の歌」(歌・小畑実/作曲・吉田正)あたりがルーツだろうか? 『平凡』の歌詞募集から生まれたヒット曲としては、三田明「ごめんねチコちゃん」(64年)、舟木一夫「東京新宿恋の街」(64年)、西郷輝彦「涙になりたい」(66年)、加山雄三「まだ見ぬ恋人」(66年)、ちあきなおみ「雨に濡れた慕情」(69年)、森進一「港町ブルース」(
今から47年前の今日1968年9月25日にリリースされたザ・テンプターズの4作目のシングル「おかあさん」もそんな芸能誌の募集歌のひとつで、『週刊平凡』の誌上募集当選作の歌詞にメンバーの松崎由治(リード・ギター)が手を加えて作曲、自らソロ・ヴォーカルを取った作品である。テンプターズは、この年の3月5日にリリースした2ndシングル「神様お願い!」が大ヒット(オリコン2位)。5月にはマルベル堂のブロマイド売り上げチャートで、それまで首位を独占していたタイガースを追い抜き、以後10月にオックスにとって替わられるまで1位の座を死守していた。6月にリリースした3rdシングル「エメラルドの伝説」は50万枚を超えるセールスを記録し初の(そして唯一の)オリコンNo.1を獲得。名実共にライバルのタイガースと肩を並べGSシーンの頂点に君臨していたのである。
タイガースは半年早く3月25日に、GSとしては初の芸能誌タイアップ・ソングとなる『明星』募集歌「花の首飾り」をリリース。発売の15日前には日本武道館で「花の首飾り」「銀河のロマンス」を披露する新曲発表会を行なったが、テンプターズも発売当日に同じ日本武道館で約1万5千人のファンを集め新曲お披露目の『ザ・テンプターズ・ショー』を開催した。さらに『週刊平凡』の版元である平凡出版社(現マガジンハウス)とは競合会社である集英社の雑誌『セブンティーン』も、「おかあさんとテンプターズを聞こう」と銘打ったタイアップ・イベントを68年11月24日、私立明大付属中野高校の講堂に愛読者と母親のペア500組を招待して開催している。当時、熱狂的なGSファンが巻き起こす騒動が社会問題となり、PTAや教育委員会から<青少年非行の元凶>としてGSがバッシングされていたことへの対応策として、道徳的な歌詞の「おかあさん」が企画されたのではと一部で揶揄さられたが、このイベントなどはそれを裏付けるような内容と言えそうだ。
ただし、当時フィリップス・レコードでテンプターズの制作を手がけていた本城和治ディレクターは<「おかあさん」GSバッシング対応策説>そのものに異論を唱えている。「深読みのし過ぎです。制作サイドはそんなこと考えたこともない。松崎くんの作品にはいつも日本人の心の故郷というか、スピリチュアルな世界が通底しているので僕としては違和感は無かった。彼の生き様やキャラクターを素直に活かした作品の好例だと思いますね」。しかし、<今は亡き母親への慕情>というGSソングとしては異質のテーマが災いしたのか「エメラルドの伝説」までのセールスには至らず、最終的にオリコン・チャート4位(3週連続)止まりだった。もちろん、すでにGSブーム自体に翳りが見え始めていた時期であったことも大きな理由のひとつではあるが、<埼玉のローリング・ストーンズ>と呼ばれ、黒っぽい硬派な魅力で男子ファンをも惹きつけていたテンプターズのパブリック・イメージとはかけ離れた楽曲に、多くのファンたちが当惑していたことは否めないだろう。
それはファンだけでなく当事者テンプターズのメンバーも同様だった。大口広司(ドラムス)は当時をふり返って、「あの曲ではメンバー同士で言い合いになりました。いつもストーンズぶってるのが<おかあさん>はないだろうってね。自分で演っててテレ臭かったし、ステージでストーンズの曲とかの後にいきなり<おかあさん>でしょ。これで良いのかなぁって思いましたね」と語っている。実際、そんな「おかあさん」に対するメンバー間の温度差は、作曲者でソロ担当の松崎と、隣でハーモニカとコーラスを担当していたショーケンの間に感情的な溝を生じることとなり、それは解散まで続いた。大口が証言する。「ステージで感極まって松崎くんが泣きながら歌っている時、ショーケンが客席に背を向けて僕の方を見て<やってられねぇーよ>って顔して笑ってるの。あれには複雑な気持ちになりましたね」。
このようにバンド内に不協和音を生じさせた「おかあさん」だったが、両A面扱いのカップリング曲「秘密の合言葉」は松崎の作詞・作曲によるオリジナルで、ザ・バーズのデビュー・アルバム(65年)収録曲「Here Without You」を参考にしたと思われる(と言うか、そのまんま!)イントロで始まる小気味の良いビート・ナンバー。スピード感あふれる演奏もショーケンのヴォーカルも実に魅力的で、従来の男子テンプターズ・ファンを十分に納得させる傑作だった。現在も後追いGSファンたちからの評価も高い。しかし、バンド内の微妙な感情のもつれを修復させるまでには至らなかったのである。
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