2016年10月18日

宇宙が切り裂かれるような戦慄が身体の中を走った…ローラ・ニーロの歌との出会い

執筆者:天辰保文

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時間や場所、もっと極端に言えば、聴き手さえをも選ぶ音楽というのが、確かにある。そんなことを思うようになったのは、たぶん、誰のせいでもない、この人、ローラ・ニーロと、彼女の音楽との出会いだったかもしれないなと思う。


初めて聴いたのはいつだっただろう、アルバムの名は、『ニューヨーク・テンダベリー』だ。モノトーンの写真のジャケットからして人を惹きつけるものがあった。都会の景色を背後に、窓にもたれかけるように彼女は目を閉じている。物憂げとも、恍惚とも、どちらにもとれるような表情を浮かべている。その美しい顔に、髪が流れる。


いまはもう亡くなった写真家、デヴィッド・ガーの作品だ。彼は、ブルース・スプリングスティーンの『青春の叫び』、ジャニス・ジョプリンの『ジョプリン・イン・コンサート』、ヴァン・モリソンの『ストリート・クワイア』等々、ロック、ジャズ、ブルース関連のアルバム写真を多数手掛けていた人で、ティム・バックリー(『グッドバイ・アンド・ハロー』)と息子ジェフ・バックリー(『グレース』)を撮っていたのが、ぼくには印象に深く残っている。


話が逸れそうになったが、ともあれ、『ニューヨーク・テンダベリー』だ。1969年、日本でニュー・ロックという言葉が誘惑的に響いていた頃発売された。それが、ローラ・ニーロとの本格的な出会いだった。そもそも、17才にして、死と向き合う歌で大人たちを震えさせた女性だ。その「アンド・ホエン・アイ・ダイ」がピーター・ポール&マリーやブラッド・スウェット&ティアーズで、また、「ストーンド・ソウル・ピクニック」、「ウェディング・ベル・ブルース」がフィフスディメンションでヒットしたりして、ソングライターとしての名前が先に親しまれた。


彼女の歌との出会いは、大きな驚きだった。指がピアノの鍵盤に触れると、それはもう、宇宙が切り裂かれるような戦慄が身体の中を走った。息を呑むような静けさに包まれたかと思えば、次の瞬間には嵐のような激しさに襲われた。歌の背後には、深い闇が存在しているようで、近づくのが怖いくらいだった。いずれにせよ、静けさというのが歌にとてつもないダイナミズムをもたらす、こういう経験は、彼女がほとんど初めてだった。


1947年10月18日、ニューヨークのブロンクス生まれ。アイルランドやイタリアからの移民に、ヒスパニック系やアフリカ系米国人も多く、一時期はユダヤ人地区とも言われた地区だ。彼女もまた、イタリア、ウクライナ系ユダヤ人の両親のもとで育っている。命を削るかのように歌と向き合いつづけ、1997年4月に49才という若さで旅立ち、そろそろ20年が経つ。


いまでは、『ニューヨーク・テンダベリー』にしろ、その前の『イーライと13番目の懺悔』のような、彼女が20代に出した初期のアルバムを取り出すことはほとんどない。彼女の歌に耐えうるだけのこちら側の体力、気力がすっかり衰えたというのもたぶんその理由だが、そういうとき、ああ、こういうアルバムにも聴き手として選ばれるようにならないといけないなあ、とぶつぶつ呟きながら、(全く関係ないけど)思い出したようにスポーツジムに足を向けたりもする。


そのぶんというのもなんだが、彼女の歌に触れたいときに手にするのが、『ゴナ・テイク・ア・ミラクル』というアルバムだ。10代の頃、ブロンクスの街角で、ときには地下鉄の構内で仲間たちと歌っていた彼女が、その頃に親しんだリズム&ブルース、ソウル、ドゥワップの数々を、黒人女性ヴォーカル・グループ、ラベルを迎えて一緒に歌っている。どの歌もそらで口ずさめるほど馴染んでいたこともあって、ほとんどがファースト・テイクを起用したという。


他のアルバムに比べて緊張感に欠けるとか、趣が異なるとか、そういう訳ではないのだが、このアルバムを特別な1枚にしている瞬間がある。「ジミー・マック」のイントロあたりで、微かに「ジミー」と呟くところだ。どういう意図でこれが録音され、そのまま残されたのかは知らない。ひょっとすると彼女が出だしを間違え、それをそのまま生かしたのかもしれないなあと、そんなことを想像しながら聴いていると、ほんの少しだが彼女に近づけたような気がする。

ニューヨーク・テンダベリー ローラ・ニーロ

ゴナ・テイク・ア・ミラクル Patti LaBelle ローラ・ニーロ

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