2018年01月19日
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2018年01月19日
ジャニス・ジョプリンは1943年1月19日、テキサス州の小さな港町、ポート・アーサーで生まれた。15歳の時に友人から借りたベッシー・スミスとレッド・ベリーを聴いたのをきっかけに、ブルースにハマって歌い始めている。中でもベッシー・スミスにはそのライフ・スタイルを含めて多大な影響を受け、スミスのレパートリーを歌うことによってブルースを学んでいった。ジャニスはその後、オデッタや、ウディ・ガスリー、ローズ・マドックスら、多くの先達の歌と出逢い、地元で友人らとフォーク、ブルース、カントリーをレパートリーとするバンドで活動を始めている。
が、多感な青春時代を過ごした故郷のポート・アーサーは、決して彼女に優しく微笑んではくれなかった。ジュニア・ハイスクールの頃から規則に縛られずに自由奔放に生きようとしたジャニスは、信仰心が厚く、保守的で伝統的なモラルに支配されているポート・アーサーの気風には溶け込めず、逆に周囲からは冷たい目で見られていた。少女時代からサザン・コンフォートを煽るように飲んだのも、そんな疎外感に苛まれていたからかも知れない。ハイスクール時代にはその反発が顕著に...。ビートニック運動、ジャック・ケルアックに共鳴した彼女は、全身黒づくめのファッションに身を包み、詩を書き、絵を描き、周囲の目をはばからずに真っ向から人種差別に反対の意志を表明した。あくまで自らの信念に忠実に行動し、感ずるがままの振る舞い、物言いで押し通したのである。そんなだったから、周囲から敵視され、憎しみまで買ってしまうことになる。
そんなジャニスが解放されたのはサンフランシスコに移ってからだろう。62年にサンフランシスコに出て来たジャニスは、後にジェファスン・エアプレン、ホット・ツナで活躍するヨーマ・カウコネンとアコースティック・ユニットを組み、フォーク・サーキットで2年間ほどライヴ活動を繰り広げる。ビートニックの西の拠点でもあったサンフランは自由な気風に溢れ、人一倍反骨精神が旺盛なジャニスには打って付けだったに違いない。一度テキサスに帰るが、66年には再びサンフランにやって来て、ここでビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーのヴォーカリストとして活動を始める。ジャニスの特異なヴォーカルがロック・ファンの注目を集めるまでにさして時間はかからなかった。67年のモンタレー・インターナショナル・ポップ・フェスティヴァルにおけるジャニスの熱唱は、無名だったビッグ・ブラザーの名とジャニスの存在を一躍全米に知らしめたからだ。
やがて、ジャニスはコミューン的な絆で結ばれていたビッグ・ブラザーの元を離れてソロとなり、新たにコズミック・ブルース・バンドを結成して再スタートを切ることになる。それは更にフル・ティルト・ブギー・バンドへと続くのだが、演奏力は向上しても、果たしてそれが良かったのか? 結局、メンバーは雇われで、ジャニスがボスという図式の中で、結果的にますます孤独感に苛まれていったのではないかとも思える。一見順調そうに見えたソロ活動だったが、常用していたヘロインとアルコールの量は増えていくばかりで、不安定な精神状態での活動が続いたのである。その結果、70年10月4日、アルバム『パール』のレコーディング中に、ジャニスはヘロインのオーヴァードースで急逝してしまう(ハリウッドのランドマーク・モーター・ホテル、105号室)。
ジャニスが故郷に送った手紙を読むと、色々と見えて来るものがある。礼儀正しい優等生の典型のような文章は、そのまま両親に認められたい、故郷から愛される存在でありたいと願う気持ちの表れだったのだろう。成功しようが何をしようが故郷からも両親からも理解されなかった彼女の心は常に渇き、深く傷ついていたに違いない。その姿はアルバム『チープ・スリル』にロバート・クラムが描いた「ボールとチェーン」の絵とダブる。足枷をされ、鉄のボールを引き摺りながら這ってでも前へ進もうとした...。そんなジャニスの慟哭の歌だからこそ、今も世界中で愛され、深い感動を呼び起こしているのではないだろうか。
「JANIS JOPLIN The TV Collection PLUS NEWPORT 1968」ジャケット写真撮影協力:
増渕英紀
≪著者略歴≫
増渕英紀(ますぶち・ひでき):音楽評論家、コラムニスト。東京都出身。メジャーには目もくれず、ひたすら日本では過少評価されているマイナーな存在の海外アーティストや民族音楽、日本のアンダーグラウンド・シーンやインディー系のアーティストにスポットを当てて来た。
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