2019年02月13日
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2019年02月13日
日本武道館で体験した最初のコンサートはブラッド・スウェット&ティアーズのコンサートだった。1971年2月13日。プロモーターはキョードー東京。音楽雑誌の駆け出しの編集部員だったぼくは、取材のため会場に向った。
地下鉄九段下の駅を降りると、一帯は通勤帰りの人たちの人波と逆に進むファンで混雑し、北の丸公園はダフ屋の声や主催者の入場誘導案内で少し殺気立っていた。
前年に公開された映画『ウッドストック』に観客がフェンスを壊して無料入場する場面があり、ロック・コンサートの長髪の観客は何をするかわからないと思われていた時代だった。1966年に疑似戒厳令下で行なわれたビートルズ公演の騒ぎの記憶も亡霊のように漂っていなくはなかった。この夜は、実際には一部のファンが立ち上がって踊り、警備員に制止されただけだったが、ともあれ、スタジアム公演の増えたいまとちがって、武道館に足を踏み入れたら、とてつもなく大きな空間に感じられたことを覚えている。
いわゆるロックの来日コンサートは、それまでにも日比谷野外音楽堂のアライヴァルと日劇のジョン・メイオールがあったが、前者はほとんど無名のかなりポップなグループ、後者はかつてエリック・クラプトンと一緒にやって注目を浴びたブルース系の渋めの歌手で、60年代後半から英米ではじまったロックの激変を体現している人たちとは言い難かった。
それに比べると、ブラッド・スウェット&ティアーズは69年から70年にかけて「ユーヴ・メイド・ミー・ソー・ヴェリー・ハッピー」「スピニング・ホイール」「アンド・ホエン・アイ・ダイ」「ハイ・デ・ホー」などをたて続けに全米でヒットさせ、ロックの潮流を作り出してきたグループのひとつだった。いまにして思えば、グループ活動のピークは過ぎていたが、日本のファンにとっては、勢いのある本場のロック・アーティストにようやく直にふれられる記念的なコンサートだったから、会場が大きな期待に包まれたのは当然だった。
ロックとはギターを中心にしたハードな音楽という当時の一般的なイメージとちがって、彼らはブラス・セクションのある比較的編成の大きなバンドで、その音楽は<ジャズ・ロック>や<ブラス・ロック>と呼ばれていた。ブラス・セクションはクラシックやジャズの素養のある人たちだった。
大ヒットしたセカンド・アルバム『血と汗と涙』はエリック・サティの「ジムノペディ」からはじまり、トラフィックやローラ・ニーロからブレンダ・ハロウェイやビリー・ホリデイのカヴァーまで、幅広いレパートリーを収めたアルバムだった。
ジャズや現代音楽の即興とハーモニー、エフェクトのかかったロック・ギターのサウンド、デイヴィッド・クレイトン・トーマスの力強い歌声のブレンドは、いまではそう珍しく感じられないかもしれないが、当時は誰も聴いたことがないものだった。アルバム冒頭の「ジムノペディ」のブラスのハーモニーを聴くだけで驚きが走った。
来日時にはもういなかったが、デビュー・アルバム『子供は人類の父である』には後のフュージョンの時代に注目を浴びるトランペッターのランディ・ブレッカー、ボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」や『スーパー・セッション』のアルバムへの参加で注目されたアル・クーパーが参加していた(『スーパー・セッション』は『子供は人類の父である』の後に発表されたが、来日時には両方とも日本盤が出ていて、ロック・ファンには前者のほうが人気があった)。
武道館に対応したPAシステムの配置がまだ確立していなかったので、音響状態が必ずしもいいとは言えない中、ギターの轟音を求めるロック・ファンには「大人びた」演奏が多いコンサートだったかもしれない。ジャズ・ファンもけっこう観に行ったことを後で知った。
個人的には『血と汗と涙』というグループ名やアルバム・タイトルに想像をかきたてられ、ローラ・ニーロの「アンド・ホエン・アイ・ダイ」やトラフィックの「スマイリング・フェイシズ(邦題は「微笑みの研究」)」など好きだった曲がこんな演奏になるのかと驚きながら、革新的にして伝統的な演奏を聴いていると、それまでポピュラー音楽の常識と思っていたことに再考を迫られているような気がしてきた。その意味でその夜のコンサートはまさに未知の文化との遭遇とでも言うべき出来事だった。
≪著者略歴≫
北中正和(きたなか・まさかず):音楽評論家。東京音楽大学講師。「ニューミュージック・マガジン」の編集者を経て、世界各地のポピュラー音楽の紹介、評論活動を行っている。著書に『増補・にほんのうた』『Jポップを創ったアルバム』『毎日ワールド・ミュージック』など。
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