2016年11月15日
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2016年11月15日
11月15日は遠藤ミチロウの誕生日である。
黒のスリムパンツに上半身裸、目を大きく隈取りした痩せこけた男が赤いトラメガを片手に絶叫する。得体の知れない肉片を投げ、轟音と爆竹が炸裂する中、客に飛びこむ。客を威圧し扇動し続けていたその男は狂乱した客にマゾヒティックに身を任せる。1980年代の初め、北千住か王子か、東京の北部ライブハウスで初めて見たザ・スターリンだった。年代も思い出せないが、寒い冬の日だった。
「いや火傷したり、傷が耐えなくて」。
その夜初めて会ったミチロウはかすかな東北の訛りと笑うと顔に皺がでる朴訥な男だった。ヒッピーでアジアを放浪し、初めはフォークだった、というような話しも聞いた。
じゃなぜ、パンクバンド、ザ・スターリンになったのか? ということは聞いていない。聞かなくてもわかるような気がした。70年代後半からのパンク/ニューウエイブの強烈な「なんでもいいからやれ。表現しろ。主張しろ。目立て。騒動を起こせ」的な方法論に誰もが浮かされていた。
その過激さがテレビや週刊誌にまで伝わったザ・スターリン。81年のメジャーデビュー後、初のソロアルバムをミチロウはカセットブックという形式で発表した。100Pぐらいの本とカセットをA5版のプラスチックのケースに入れたものだ。1984年の4月、今の宝島社の前身JICC出版局から発売。写真家は石垣章、月刊宝島で実施した糸井重里との対談や蛭子能収のイラスト、ミチロウのエッセイと詩。このブックレットを私が編集し、音はミチロウのプロデュースで確か赤坂マグネットスタジオで録音したものだ。ザ・スターリンのメンバーはもとより、当時同じく宝島からカセットブックを制作したP-モデルの平沢進も参加した。
いまもミチロウの代表曲である「仰げば尊し」のほか、ジャックスの「割れた鏡の中から」、ステッペンウルフの「ワイルドで行こう!」などのほかバロックの作曲家パッヘルベルの「カノン」など意表とつく選曲だった。15000部が完売し重版を繰り返した記憶がある。
当時、カセットブックが新しいメディアとしてかなり注目を浴びたが、要は「今までにないまったく新しいもの」を書店に並べたかった。この思いはミチロウも一緒だった。さらに私の「ロックを書店で売ってみたい」という企てはその後、無謀にもインディーズレーベル、キャプテン・レコードの創設まで突き進んだ。
いうまでもなく遠藤ミチロウは「生涯パンク歌手」である。それはもはや扇動の方法論ではなく、「反逆と抵抗の精神」としてのパンク。まったくのブレはない。
70年代から90年代にかけて、編集者として多くの素晴らしい人々に出会った。遠藤ミチロウは、私にとって遠藤賢司、忌野清志郎とならぶ生涯のアイドルである。
≪著者略歴≫
関川誠(せきがわ・まこと):「株式会社宝島社取締役雑誌局長」80年代から90年代、伝説となった雑誌「宝島」の編集長を務める。宝島の前身であるJICC出版時代、遠藤ミチロウのカセットブックを担当・編集する 。
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