2016年11月16日
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2016年11月16日
ユーミンの怒濤の快進撃がはじまったアルバムが『昨晩お会いしましょう』だった。このアルバムをきっかけに、彼女は年に1〜2枚というアイドル並みのスピードのアルバム発表と、豪華な演出を凝らしたコンサート・ツアーをたずさえて、止まらない疾走をはじめた。
まだ荒井由実と名乗っていた時期、「あの日に帰りたい」やアルバム『コバルト・アワー』の大ヒットでシンガー・ソングライターの頂点にのぼりつめ、ニューミュージックという言葉を体現したのは1975年のこと。
その後、松任谷正隆と結婚して、アーティスト名も松任谷に変えてから、このアルバムがヒットするまでは、雌伏の時期が続いた。アルバムの質が落ちたわけではないのに、騒がれなくなった理由は、結婚して活動を少し控えたこともあるが、それ以上にファンが彼女に対して「一段落した人」というイメージを抱いたことだったかもしれない。ヒットという現象は、それほどまでにファンの気分に左右されやすい、うつろいやすいものなのだ。
しかし映画主題歌になった「守ってあげたい」をはじめ、「街角のペシミスト」「カンナ8号線」「手のひらの東京タワー」などユーミン・スタンダード満載のこのアルバムは、離れていったファンを引き戻したばかりでなく、新しいファンのもとへと広がっていった。
神戸を舞台にした「タワー・サイド・メモリー」ではじまるアルバムの曲想にはジャジーなテイストも加わっていたが、ファンはついてきた。「グレイス・スリックの肖像」のように、日本では一般的にさほど知名度があるとは言えないアーティストをタイトルに使った曲も、説得力をもって聞かせることができた。それほどまでに音楽に力があったということだ。
ジャケット・デザインにはピンク・フロイドやレッド・ツェッペリンで知られるヒプノシスを起用。光の洪水のようなコンサート・ツアーの演出も新しいユーミンの誕生を告げていた。
このアルバムが出たころ、ぼくは『週刊明星』用に彼女にインタビューしたことがあった。そのとき印象に残ったのは、「私のステージがサービス精神にあふれていると感じてもらえるなら、それは私の闘争心の表われと思ってもらっていいわ」という言葉だった。このアルバムの成功は、そんな徹底した意志の強さがもたらしたものでもあった。
そのためには、計り知れない努力が必要だったはずだが、それをあえて表に出さずいつも「音楽は道楽です」と言ってはばからないのがユーミンの奥ゆかしさだ。優れた作品を作り出すためには、ビジネスの数量計算の発想ではなく、真剣な遊びの精神が必要なことを彼女は本能的に知っているのだ。
ユーミンは何でもできるスーパー・ウーマンと思われているかもしれない。恵まれた家に生まれ育ち、才能も理解もある夫に出会い、アーティストとして成功し、ぜいたくも味わってきた。インタビューでもいつもてらうことなくそんな話をしている。しかしそれは本音であると同時にリップ・サービスでもあるのだと思う。
彼女の歌には、夢を語っている作品でも、その夢のせつなさやはかなさが含まれているものが少なくない。それは日本の文化風土が連綿として育んできた感覚でもある。彼女の音楽が幅広い年齢層のファンを引きつけて止まないのはそんなところもあるからではないだろうか。
≪著者略歴≫
北中正和(きたなか・まさかず):音楽評論家。東京音楽大学講師。「ニューミュージック・マガジン」の編集者を経て、世界各地のポピュラー音楽の紹介、評論活動を行っている。著書に『増補・にほんのうた』『Jポップを創ったアルバム』『毎日ワールド・ミュージック』など。
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