2015年08月19日
スポンサーリンク
2015年08月19日
8月19日は星勝の誕生日。1948年生まれ。今年で67歳となる。
星勝 氏、
僕が21歳の頃からだから、もう40数年来の敬愛する友人である。
先日、ある音楽関係の友人と話していた時、その友人が言うには日本で初めての純粋なロックのアレンジャーは星勝氏だ、という話になった。
僕はホリプロの入社試験を受け1969年に正式入社が決定したのだが、半年前の1968年10月(あの府中3億円事件の2ヵ月前)から出社することになった。
入社試験の面接で、バンドをやっていたことが書いてあった履歴書を見た面接官のホリプロの重役からホリプロの中で、どんなバンドが好きなのかと聞かれ、躊躇なくモップスと答えた。
ホリプロの中でも硬派のバンドだったモップスは僕がアマチュア・バンド時代にやっていた曲や、やりたい曲のほとんどをレパートリーとして演奏していた。
但し、現実は厳しく、仕事と言えばジャズ喫茶の出演がほとんどメインの仕事。
最悪の時は昼夜のステージの客が最初から最後まで同じ顔触れの5人くらいという時もあった。
グループ・サウンズ・ブームの衰退に反比例するように、海外のロック・シーンではニュー・ロックとかアート・ロックと言われるような時代が到来していた。
モップス担当になって最初の仕事がレコード会社を決めることだった。
興味のありそうな会社を何社か当たるうちに、東芝音楽工業(東芝レコード)の洋楽担当で日本での最初のビートルズのディレクター高嶋弘之氏が乗ってくれた。
高嶋氏はバイオリニストの高嶋ちさ子さんの父で実兄が俳優の高島忠夫氏。
東芝が洋楽レーベルを作り、当時レコード会社専属の作家しか曲が書けないという協定を回避するために、グループサウンズなど自作の曲を歌うアーティストを、外国レーベルならその協定が通用しないということで、各社洋楽レーベルを作り、そこからアーティストの作品をリリースしていた。
東芝もヴェンチャーズなどのリバティ・レーベルでの邦楽アーティストを始めることになりモップスはリバティ・レーベルでの発売が決まった。リバティの担当者は安海勲氏。
安海氏はモップスの中でも星勝の声に魅了された。まずソロ・シングルで名義も星勝(ほしまさる)と読ませることになった。本名は(ホシカツ)だったが。
そこで、当時反戦ソングを見事に歌謡フォークにして大ヒットした『フランシーヌの場合』を書いた郷伍郎氏に依頼。
『眠り給えイエス』/『週末の喪章』で(1969年11月10日)ソロデビュー。
そしていよいよ、モップスとしてのレコーディングがスタートする。
反戦運動や安保闘争など、日本もアメリカも学生が中心となったムーヴメントが多かった。
鈴木ヒロミツとモップスも日本語でのロックを、そしてまた日本のロックの在り方を模索していた。
日本でのニュー・ロックやアート・ロックの代表的な存在としても認知され始めたモップスは、クラシック音楽家や現代音楽との共演やファッション・ショーとの共演など、微妙に芸術的な匂いのするイベントに呼ばれることも多くなっていた。
ある時、星勝はモップスの曲に弦楽4重奏のアレンジで初めてストリングスをダビングした。
星がギターで考えたフレーズが実際に2本のバイオリン、ビオラ、チェロで演奏されると、新鮮な感動があった。しかしサビのフレーズになった時、不協和音が出てきた。もう一度演奏してもらっても同じである。一瞬、ヤバいぞと思っている時、星は何の衒いもなくスタジオのヴァイオリニストにどこが違うんですかね? と聞きに行ってしまうのである。
プライドの高いミュージシャンの中には、ロック・バンドを馬鹿にしている人もいるような時代だった。まして新人のアレンジャーである。
この時は幸いにも親切なメンバーで「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」の心境だったのだろう、懇切丁寧に教えてくれイメージ通りに仕上がった。
星はこの後も楽器の音域などをハプニングス・フォーのクニ河内氏に教えを乞い、ストリングス以外のアレンジをし始めた。
その頃ヤマハ音楽振興会にいた友人から「‘71作曲コンクール(第3回)」にフルバンドの編成とモップスの共演で参加できないか? と打診があった。
ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズやシカゴのようなブラス・ロックも面白いと思い、モップスに相談した。鈴木ヒロミツの推薦もあり積極的に参加することになった。ヤマハの友人にモップス用に良い曲をくださいと言ってみると、カセットのデモ・テープの段階でかなり評価の高い曲があるという話だった。その曲を半分強引に戴いてきた。
星勝は初めてのフル・バンドのアレンジを、クニ河内氏から教えて貰った楽器の音域表を見ながらアレンジ。
本番当日、コンテストの行われる、ヤマハ合歓の郷で音合わせである。
モップスの番が来て、音が出た途端ミュージシャンたちの何人かがブーイングである。
何事かと聞きに行った。
原因はクニ河内氏の音域表は、ほぼ楽器の限界音が書いてあったのである。
星はその限界音まで使ってアレンジしていたのである。譜面を引き上げ、もう一度音合わせをしてもらうことを約束し、その間に、星が手直しすることにした。
あまり時間がない中で星は音域にも余裕があるアレンジにブラス・セクションなどの譜面を書き直した。
見事、作詞:森田純一/作曲:菅節和/編曲:モップス/演奏:モップスの楽曲『雨』はグランプリを受賞した。
それからは、星は自分たちモップス以外のアーティストのアレンジも始めた。
井上陽水のデビューアルバム『断絶』のアレンジである。
演奏は鈴木ヒロミツ以外のモップスのメンバー。
星がやり易いことと予算が抑えられるという一石二鳥のアイデアだった。
その後『氷の世界』や『二色の独楽』へとサウンド・プロデューサーという役割は続いて行った。
そして、星勝のアレンジャーとしての才能は様々なアーティストで証明されていった。
浜田省吾、尾崎豊、小椋佳、や僕が担当していた姫乃樹リカなどのアイドルもアレンジしてもらった。
陽水の『氷の世界』は日本初の100万枚突破という結果をだした。勿論、星のアレンジも一役も二役もかっている。
そしてその話題の影に隠れているのが、ロサンジェルス録音の『二色の独楽』。
スタジオ・ミュージシャンとして、ジョー・サンプルなどクルセーダーズのメンバーや後に『ゴースト・バスターズ』で知られるレイ・パーカー・Jr.、ジョージ・ハリスンのコンサート・フォー・バングラデシュで有名になったジェシ・エド・デイヴィスや、アレンジャーとしてフィル・スペクター等のアレンジャーだったジャック・ニッチェやジーン・ペイジも参加している。
このレコーディングでの星のアレンジに対してスタジオ・ミュージシャンや他のアレンジャーからの評価は、一緒に仕事をしてきた僕が誇らしく思えるほど絶賛された。
このアルバムはその年のレコード大賞の編曲賞を受賞している。
幸いにも、ひとりの才能あるアレンジャーの、「芳しい双葉の状態」から見られたことも僕の財産になっている。
ちなみに星勝の携わった代表的アーティストを列挙してみる。
井上陽水、小椋佳、浜田省吾、尾崎豊、来生たかお、RCサクセション、安全地帯、上田正樹、H2O、甲斐バンド、高中正義、中島みゆき、ザ・ピーナッツ、一青窈、福山雅治、薬師丸ひろ子、姫乃樹リカ、等々。
ピンク・フロイドの初来日コンサート“箱根アフロディーテ”が開催されたのは1971年8月6日と7日。もう半世紀近く前になるが、このイベントに足を運んだ人に出会って、その話になると、いまでも“あー、...
第一線で活躍している現役アーティストの訃報にはいつも驚く。1978年1月23日に亡くなったシカゴのギタリスト、テキー・キャスの時も同じだ。まだ31歳。しかも、ピストルの暴発による事故死という報道...
1月18日は小椋佳の誕生日である。73歳、古希(70歳)を迎えた時に“生前祭コンサート”を行う。小椋は、東大法学部4年時、ラジオ局で寺山を“出待ち”し、後日そのサロンに入る。卒業後、第一勧銀に入...
本日12月12日は、中島みゆきの「わかれうた」がオリコンチャートの1位を取った日である。彼女にとって、初のナンバ-ワン・ヒットとなった。この歌はいきなり、道に倒れて誰かの名前を呼び続けるというよ...
『氷の世界』は、井上陽水の3枚目のオリジナル・アルバム。1973年12月1日にポリドール・レコードよりリリースされた。LPレコードのそれまでの最高記録である森進一の『影を慕いて』の60万枚をはる...
1974年10月14日、井上陽水の4枚目のアルバム『二色の独楽』がオリコンのアルバムートで1位を獲得した。40日間にわたりロスアンゼルスのA&Mスタジオで行われたレコーディングは僕自身、その後の...
あの有名な「月光仮面は誰でしょう」の歌詞が星勝のブルース風の歌で始まる。もともと大瀬康一扮する探偵、祝十郎が変身して月光仮面になるという設定の筈が、何故か宇宙人という設定になってしまうというハ...
鈴木ヒロミツは、弟のスズキ幹治が友人の星勝、三幸太郎、村上薫の4人で作っていたインストルメンタル・バンドにヴォーカリストとして加入した。エリック・バードンに心酔していたヒロミツは「朝日のあたる家...
2月23日は中島みゆきの誕生日。1975年に「アザミ嬢のララバイ」でデビューして40年を過ぎた今も、彼女は日本の音楽シーンに圧倒的な存在感を放ち続けている。どうして中島みゆきの世界は、これほど僕...
1974年のある日、新人ディレクター蔭山氏から紹介されたバンドが「愛奴」だった。バンド名から想像するとあまり期待できそうもないなと思いつつ彼らのデモテープを聴いた…。その愛奴でドラムを担当してい...
6月11日は「傘の日」、といえばやはり井上陽水「傘がない」。本日のコラムは当時、ホリプロで制作担当として現場にいた川瀬泰雄による「傘がない」誕生の知られざる経緯です。
今から43年前(1972年)の今日リリースされた井上陽水のアルバム『断絶』。1969年に「アンドレ・カンドル」の芸名でデビュー以来3枚のシングルをリリースしながらも鳴かず飛ばずだった彼が、レコー...