2017年01月17日
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2017年01月17日
寺内タケシ氏(本名、武)は、1939年(昭和14年)1月17日、茨城県土浦市で電気店を営む父親(龍太郎)と小唄や三味線の師匠であった母親を両親として誕生している。戦争激化から出征した兄が置いていったギタ-を弾くようになり、10歳の頃には簡単な電気的増幅が可能な手製のギタ-を完成させている。
中学生になると、父親が興業の仕事もしていたことから浅草の国際劇場でのペレス・プラ-ドの公演を見る機会に恵まれる。その衝撃から、同級生たちとバンドを結成、早くも音楽活動を始める。
ある日、父親が経営していた映画館に明治大学のマンドリン・クラブが演奏会を行ったのを見て、明治大学進学後はマンドリン演奏に明け暮れてしまう。当然の結果として学業が疎かになってしまい、父親の逆鱗に触れてやむなく関東学院大学に転校。横浜郊外の金沢八景に移ったことで音楽とは無縁になりかけたが、住居が横須賀の米軍キャンプに近かったことで氏の運命は意外な展開を見せるようになる。
川地民夫(後に、日活の俳優として活躍)や菊池正夫(後の人気歌手、城卓也)ら音楽好きの若い世代と知り合い、キャンプのオ-ディションを受けたところ、そのギタ-の腕前が評価され、トップ・ランクの演奏家としてのステ-ジ活動が始まる。米兵の腕自慢たちで結成されたホンシュウ(本州)・カウボ-イズに参加する頃にはGIたちから呼ばれた"テリ-ボ-イ"が氏の愛称として定着するようになった。
出征するGIから購入したフェンダ-・テレキャスタ-(後、ストラトキャスタ-やジャガ-・モデルを購入)を抱えて米軍関係のクラブで活躍する氏のプレイが評判となり、ミッキ-・カ-チスのクレイジ-・ウェストに招かれ、「日劇ウェスタン・カ-ニバル」('58年5月)を体験。また'60年代に入ってからはジミ-時田とマウンテン・プレ-ボ-イズに参加し、初のレコ-ディングを経験している。
その後、人気歌手、ほりまさゆきとの出会いからバック・バンドとして氏を中心としたブル-ジ-ンズが誕生する。ピアノやサックスも入った編成であったが、渡邊プロ移籍後、'63年の米国西海岸に吹き荒れたサ-フィン・ブ-ムによりバンドのメンバ-・チェンジとフェンダ-・ソリッド・モデルによるエレキ化を達成。寺内氏以外のメンバ-は、加瀬邦彦(スパイダ-スより移籍、RG)、市山正英(RG、後岡本和夫に交代)、有馬修(Bass、後、石橋志郎に交代)、堀直昭(Drums、後、工藤文雄に交代)、鈴木八郎(KB)といった布陣で、当初ブル-ジ-ン・バップス(内田裕也、堀まさゆき、桜井五郎、藤本好一)と呼ばれたヴォ-カル・グル-プとの共演ステ-ジがメインとなっていた。
'64年、アストロノウツによる「太陽の彼方に」の超メガ・ヒットから、6月に『これぞサ-フィン』(東芝-7031)を発売。日本人が初めてサ-フィンをテ-マにしたアルバムとして現在もマニアから注目を集めている。
翌'65年にはベンチャ-ズ日本公演を契機に起こった空前のエレキ・ブ-ムのなか、ブル-・ジ-ンズは1年間でテイチク、コロンビア、東芝、キングよりト-タル10枚ものアルバムをリリ-スしてプロのエレキ・バンドとして不動の地位を築く。キングでのシングル作品「ユア・ベイビ-c/wブル-ジ-ン No.1」(BS-284)はAB面とも加瀬によるオリジナル作品で、後のGSブ-ムを予感(この時点でまだGSという言葉は誕生していない)させている。
エレキはT・I・C(東京インストゥルメンタル・サ-クル)らのアマチュアを中心としたブ-ムの側面を持っているがコンサ-トやレコ-ドなどの記録物、TVや映画、雑誌といったメディアにはプロしかその対象とならなかったことで、彼らの功績はやはり大きかったと判断される。当時エレキを手にした若き日本人プレ-ヤ-がよくインタビュ-で、昔を振り返ってブル-ジ-ンズの衝撃を指摘するのを耳にするファンも多い。日本人でもエレキ・バンドを結成してヒット曲を放つことが可能なことを中高生たちにストレ-トに伝えたのだった。
'65年12月封切り『エレキの若大将』(東宝、岩内克己監督作品)では、加山雄三とともにエレキを楽しそうにかき鳴らす氏の姿が印象的であるが、この頃、氏のアイディアを中心にヤマハで開発された最新モデル、ブル-ジ-ン・カスタム(SG-7)も登場している。
同じ12月リリ-スの「レッツ・ゴ-・エレキ節」(KingSKK-179、すでにサンバ-ストのモズライトを使用)は日本民謡、初のエレキ・アレンジのアルバムとして注目され、収録された「津軽じょんがら節」の名演はその後のステ-ジでも長くファンを魅了していく。私見ではあるがこの時点で、氏はそれまでの欧米の最新ヒットをエレキ・スタイルにアレンジしてカヴァ-するというテ-マから、日本の伝統文化に基づいた民謡や謡曲を自分流にアレンジしてエレキで演奏するということに重点を移していくことを決意したように感じる。
日本人にしか理解できないようなメロディ-やム-ドをエレキで表現することにアイデンティティ-を見出したのではないだろうか...。
寺内氏のプレイ・スタイルが'80年代以降海外のエレキ・マニアからも一定の評価を受けるようになるのは、それが他に例を見ない個性的なものであったからだと考えられる。
'66年、渡邊プロとバンドの路線をめぐる意見の相違から横浜に拠点を移し、新しいプロジェクト、バニ-ズを結成。秋にはレコ-ディングを開始、12月にはアルバム「バニ-ズ誕生 !」(KingSKK-285)をリリ-スする。すでにGSの大ブ-ムを予感していたように、ビ-トフルなヴォ-カル曲と氏のギタ-を前面に出したエレキ・インスト両方が交互にシングル企画され、楽しいステ-ジングも若いファンを魅了していくことになる。TVドラマやTV-CMとのタイアップ曲などもヒットするなか、有名クラシックのエレキ・アレンジ集「レッツ ゴ--運命」(SKK-366)などのエレキの力作も発表され、氏は"エレキの神様"として信奉されるようになる。
現在でも精力的に音楽活動を続ける寺内氏は、頑固なまでの職人芸とも言えるギタ-・プレイで観客を魅了しているが、60年代、まだエレキ自体がどういうものか日本人にはよく理解できなかった時代に、その奇跡的とも言える演奏技術で音楽シ-ンを盛り上げた功績は、永遠に語り継がれることであろう。
≪著者略歴≫
佐々木雄三(ささき・ゆうぞう):1957年生まれ。大学生の時、宮治淳一氏(現ワ-ナ-・ミュ-ジック)らによるエレキのファン・サ-クル"Eleki Dynamica"に参加、レコ-ド会社に勤務しながら、機関誌やカセツト・マガジンなどの制作に携わる。レコ-ド会社退社後、『エレキ・インスト大全』刊行。また『エレキギタ-・ブック』にレギュラー出筆。現在は、小田原の曹洞宗寺院の住職を務めている。
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