2017年05月25日
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2017年05月25日
戦後の歌謡界に燦然と輝く大スター、美空ひばりが最も多くのヒットを連ねたのは1950年代に遡る。しかし1960年代に入ってからも女王の活躍は続いた。64年に出された「柔」が翌65年の日本レコード大賞を獲得した後も、66年には古賀メロディ「悲しい酒」をリバイバル・ヒットさせる。そしてさらに翌67年に放たれた意外な形のヒット曲が「真赤な太陽」であった。グループサウンズ(=GS)全盛期、ブームを支えた代表格、ジャッキー吉川とブルー・コメッツをバックに従えて、ミニスカートの衣装で歌われたポップス歌謡は、ミリオンセラーを記録し、自身のシングル売上げ4位の大ヒットとなる。その後も多くの歌手にカヴァーされてきた「真赤な太陽」のシングルが日本コロムビアからリリースされたのは今からちょうど50年前、1967年5月25日のことだった。
歌謡曲に明るい向きには周知の事実であろう。美空ひばりは演歌歌手ではない。後年はたしかに演歌調の作品も歌ったが、歌謡曲からフォーク、民謡に端唄、スタンダード・ジャズに至るまでどんなジャンルも華麗に歌いこなすオールラウンドプレイヤーとして歌謡界に君臨した。世間がマンボ・ブームに沸けば「お祭りマンボ」、ドドンパが流行れば「ひばりのドドンパ」、ツイスト人気が世を席巻すると「ひばりのツイスト」といった具合でニューリズムには常に敏感に反応しているし、抜群のセンスで歌われた英語詞のポピュラー・ナンバーにも定評がある。ナット・キング・コールが世を去った時には追悼盤としてスタンダードのカヴァー・アルバムを出したほど。それらを鑑みればGSブーム下で「真赤な太陽」に挑んだのは必然といえるのかもしれないが、既にベテランの域に達してレコ大を獲ったり、古賀メロディを歌い上げていたりしていた時期であっただけに、いきなりミニスカでゴーゴーダンスを踊りながら歌う姿は、世間的にはかなり斬新に映ったものとおぼしい。
そもそもはシングル用に書かれた曲ではなかった。芸能生活20周年記念に企画されたアルバム『歌は我が命』に収録するために制作された曲のひとつで、リサイタルで歌われたところ思いのほか反響が大きく、スタッフ間でも評判がよかったためにシングル・カットされることになる。作曲を手がけたシャープス・アンド・フラッツのリーダー・原信夫の述懐によれば、楽曲提供の候補にはひばりの盟友・江利チエミの名も挙がっていたそうだが、決め手はやはりアレンジを担当した井上忠夫(後の井上大輔)と、氏が所属していたジャッキー吉川とブルー・コメッツがひばりと同じコロムビアの所属だったことであろうか。もしもキングレコードのチエミが歌うことになっていたら、寺内タケシがアレンジを担当して、バニーズを従えて歌ったのかも、などと考えると実に興味深い。67年のレコ大を受賞するなどブルー・コメッツの代表作となる「ブルー・シャトウ」の発売は3月15日。それから2ヶ月後、曲が大ヒットしていた最中のリリースだった「真赤な太陽」は正に注目度最高の絶妙なタイミングで出されたことになる。
発売元だったコロムビアの力の入れようは、レコード盤の作りにも顕著である。シングルの品番は新設された“D-1”(ちなみに“D-2”も美空ひばり。翌68年に井上忠夫と原信夫がAB面をそれぞれ作曲した「太陽と私/星空の微笑み」だった)でレーベルがシルバーの特別仕様。期待に応えて140万枚を売り上げた大ヒットは、ひばりのシングルの中でも「柔」「川の流れのように」「悲しい酒」に次ぐ歴代4位にランキングされている。「真赤な太陽」のヒットはGSブームがいかに凄かったかを証明する事例のひとつといえそうだ。この時期は非ポップス系の歌手だった村田英雄や北島三郎、都はるみやこまどり姉妹らもビートを効かせたオリジナル・ナンバーを発表していたものの、残念ながらヒットに至ったものは少ない。優れた楽曲であることはもちろん、ブルー・コメッツのバックアップもあったとはいえ、美空ひばりのアーティストパワーがいかに抜きん出ていたかが判るだろう。
さて、「真赤な太陽」といえば、どうしても触れておかなければならない有名な話がある。この年(=67年)の2月に東芝から「恋のハレルヤ」で再デビューした黛ジュンが2枚目のシングル「霧のかなたに」を出した後、その2曲に「好きなのに 好きなのに」、そして「真赤な太陽」のカヴァーを加えた4曲入りのコンパクト盤を出すことになった。黛の担当だった高嶋弘之ディレクター(俳優・高島忠夫の実弟でビートルズ担当としても知られる人物)は当然コロムビアにお伺いを立てた後に許可を得てレコーディングを済ませ、ジャケット印刷とレコードもプレスされて発売を待つばかりとなる。ところが直前になって、ひばりサイドにその件が伝わっていなかったことが判明。マネージメントを取り仕切っていた母・加藤喜美枝の逆鱗に触れ、お蔵入りとなってしまう。結局はレコードプレス代など東芝の諸経費一切をコロムビアが負担することで決着し、件のコンパクト盤は1曲が「恋の季節」(ピンキーとキラーズの曲に非ず)に差し替えられて発売された。長らく幻となっていた黛版「真赤な太陽」は、ずっと後、ひばりが世を去って5年後の1994年にCDシングル盤で発売されてようやく陽の目を見たのであるが、これがまた本家に迫るくらいの素晴らしい録音で、後に“一人GS”と称される彼女にピッタリの楽曲であったことを改めて思わせたのだった。なお、ほとぼりが冷めた69年になって黛が出したシングル「不思議な太陽」はイントロから「真赤な太陽」を彷彿させる作りで、タイトルにも黛サイドの無念さが込められた遺恨の一曲であったことは明らかなのだ。そんなわけで当時はシャレにならない大騒動であったろうが、今となっては歌謡史の1ページを賑わした興味深いエピソードである。
≪著者略歴≫
鈴木啓之 (すずき・ひろゆき):アーカイヴァー。テレビ番組制作会社を経て、ライター&プロデュース業。主に昭和の音楽、テレビ、映画などについて執筆活動を手がける。著書に『東京レコード散歩』『王様のレコード』『昭和歌謡レコード大全』など。FMおだわら『ラジオ歌謡選抜』(毎週日曜23時~)に出演中。
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