2015年06月24日
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2015年06月24日
本日、6月24日は美空ひばりの命日。亡くなったのは1989年、あれから26年が経つ。
『ひばり島珍道中』が証明した美空ひばりのポップス・センス
美空ひばりは“歌謡界の女王”と呼ばれるに相応しい存在であるが、決して“演歌の女王”ではない。いわゆる演歌に傾倒したのは歌手生活におけるかなり後の時期であり、その頃とてもジャンルに捉われない曲を歌い続けていた。晩年の作品に、小椋佳の作による「愛燦燦」や、秋元康と見岳章が手がけた「川の流れのように」があることからも明らかであろう。グループサウンズのブームに乗ってヒットさせた「真赤な太陽」然り、彼女のポップス・センスは周知の事実ではあったとはいえ、そのことを明確に証明したのが、美空ひばりが惜しくも没した年の暮れにNHK-FMで放送された『ひばり島珍道中』という番組。パーソナリティーは誰あろう、大瀧詠一氏であった。氏はそれ以前から自らのラジオ番組で美空ひばりの様々なナンバーを紹介しており、追悼の意が込められての集大成的な番組となった。
オープニングはあまりにも見事なカヴァー「A列車で行こう」で幕を開ける。昭和20~30年代のひばりは、ジャズのスタンダードやポピュラーソングのカヴァーにも抜群のフィーリングを見せた。番組ではそうした歴史に則して、ひばりソング以外にも曲が紹介され、少女時代に得意のレパートリーとしていた笠置シヅ子「東京ブギウギ」をかけてからの、デビュー曲「河童ブギウギ」なのだ。そしてマンボの王様と称されたペレス・プラード楽団の「マンボNo.5」、さらに榎本健一の「落語マンボ」までかかってしまう痛快さ! その上でもちろん「お祭りマンボ」がかかる。服部良一の弟子筋にあたる原六朗が作詞・作曲した傑作である。最後にしっかりオチがつくこの曲は、後に多くのノヴェルティ・ソングを手がけることになる大瀧氏にとっても重要なナンバーであったに違いない。
以降も怒涛のオリジナル・ポップスが続く。「振り袖小僧」や「すたこらマンボ」、「ひばりのチャチャチャ」に「チャルメラそば屋」。美空ひばりの歌う軽快なリズム歌謡を嫌というほど聴かせられ、その魅力を改めて思い知らされたリスナーは少なくなかったと思う。かくいう自分もそのひとりであった。圧巻はチャビー・チェッカーからの、「ひばりのツイスト」と「アキラでツイスト」のメドレー。美空ひばりと小林旭、ラジオならではの夢の競演にニヤリとさせられる。ひばり・チエミ・いづみの三人娘が初共演した東宝映画『ジャンケン娘』で歌われた「素敵なランデヴー」と「ロマンチックなキューピット」に漂う幸福感も尋常ではない。夢と希望に溢れていた時代への憧憬が頂点に高まる瞬間だ。
番組後半のクライマックス「真赤な太陽」に至るまでには、ビートルズ、ブルー・コメッツがかかり、ここが大瀧氏ならではの、村田英雄のひとりGS「太陽に祈ろう」まで紹介。当然の如く、当時一悶着あった黛ジュン版の「真赤な太陽」も紹介される。さらにひばりが後年カヴァーした「東京ブギウギ」をかけて、歴史は繰り返したのだというオチもしっかりと。最終コーナーは「悲しい酒」を元の北見沢惇ヴァージョンと聴き比べ、藤山一郎の「影を慕いて」にも触れて古賀メロディに帰結する。「歌声は虹の彼方へ」をラストナンバーに選んだのも見事な選曲だった。後に35枚組の全集を相当に聴き込んでから、久しぶりに番組の録音を聴き、その念入りな選曲に改めて唸らされた。欲を言えば「車屋さん」が聴けなかったのがちょっと残念なくらいだろうか。「悲しき口笛」も「哀愁波止場」も「柔」もかからない代わりに、ポップスシンガー・美空ひばりの凄さを示した番組の意義は極めて大きく、現在手に入れることが出来るコンピレーション・アルバムへの影響など、その後の再評価をもたらすのに多大なる貢献を果たした筈だ。ちなみにタイトルはビング・クロスビーやボブ・ホープが主演した米コメディ映画『バリ島珍道中』のもじりである。念のため。
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