2017年10月26日
スポンサーリンク
2017年10月26日
10月26日は、今やギタリストとして、神の一人と言われる野村義男の誕生日である。1964年生まれだから53歳になる。
野村義男はご存じの通り、70年代末からたのきんトリオとして田原俊彦、近藤真彦と共にジャニーズのアイドルとしてブレイク。田原、近藤に続いてレコードデビューすることになるが、野村義男だけはソロではなく、「THE GOOD-BYE」というバンドとして1983年にデビューした。
私は当時、ビクターの制作部に所属しており、ディレクターとしてTHE GOOD-BYEの担当を任された。
ヨッちゃんはバンド映えするからバンドでなくてはダメだし、それも「野村義男と○○」というようなものではなく、ひとつのバンドのメンバーの一員とするというコンセプトはすべてジャニー喜多川さんが考えたことだった。
当時、ジャニーズといえば、筒美京平さんや松本隆さんなど、百戦錬磨の作家の方々が控えていた。私は二人ともよく仕事をしていたので、京平さんに相談すると、「僕はもう、マッチもトシちゃんも書いたから。川原君はバンド好きなんだから、自分のノウハウでやればいいじゃない」とやんわり断られた。松本さんからはマッチをやっていたので、その後すぐヨッちゃんというのも節操ないということもあり、「お手並み拝見」と言われてしまった。
唯一、相談に乗ってくれたのは大瀧詠一さんだった。当時、大瀧さんはCBSソニーの所属でレコード会社は違ったけれど、『A LONG VACATION』も『EACH TIME』も私がレコーディングを手伝っていたこともあって、懇意にさせていただいていた。
大瀧さんは、たのきんトリオの中の野村義男の立ち位置を同じトリオということで、てんぷくトリオに例えて説明してくれた。
てんぷくトリオの場合、三波伸介 さんはリーダーで母性であり、まとめ役である。伊東四朗さんはやんちゃで突拍子もないことをやる父性役割。母性と父性だとぶつかり合ってしまうので、その緩和剤として「まあまあまあ」という戸塚睦夫さんがいる。義男はてんぷくトリオで言うと戸塚さんなので、そのままほっておいたら個性は出ない。だからバンドにして正解である。となんとも大瀧さんらしいアドバイスを受けた。
そのうえで、バンドならばもう一人、義男と同じくらい歌えるメンバーを探して、ツートップのヴォーカルにしたほうがいい、ということも大瀧さんが言ってくれたことだ。
そのもう一人のヴォーカルには、ANKHというバンドでトシちゃんのバックをやっていた曾我泰久を持って来た。
バンドというものは、ビートルズを例に挙げるまでもなく1stアルバムの『プリーズ・プリーズ・ミー』からわずか4年で『サージェント・ペパーズ・ロンリーハート』までになる、その成長過程が一番面白いところだ。実際に私自身もビートルズもビーチボーイズもストーンズもティーンエイジの頃から聴いて一緒に成長体験を味わってきた。グッバイにおいてもとにかく1枚目から自分たちで演奏して、曲も作ろうということにした。義男の作詞のセンスは最初から面白かったし、曽我も曲を書くということなので初期からオリジナル曲を作り始めた。
とはいうものの、当時のビクターでは、たのきんトリオならばレコード大賞の新人賞を獲らなければいけないという旧体制時代。プロの既成作家で行くというのはもう、業務命令だった。デビュー曲の「気まぐれOne Way Boy」は作詞を橋本淳さん、作曲は山本貫太郎さんにお願いした。3曲目以降はほとんどの曲を義男と曽我で作っている。
当時、バンドというのは、レコーディングのオケはプロのスタジオミュージシャンがやるというのが当たり前だったのだが、THE GOOD-BYEは自分たちでレコーディングもやっていこうということにした。
あるとき彼らに「将来的に役者とかアイドルとして活動していきたいのか、ミュージシャンになりたいのか」と聞くと、全員がハッキリと「ミュージシャン」になりたいと言ったのをよく覚えている。
最初はギターの音が出ず、おかしいなと確認したらアンプの間のエフェクターの“in”と“out”を逆に差し込んでいたということもあった。そんな状態だったのが、みるみるうちに演奏テクニックも上達して、レコーディングに関する知識も豊富になってきた。80年代はアナログからデジタルへの移行の時期でもあり、エフェクター類の進化も日進月歩だったので、新しい機材を買ってきてはスタジオで実験したり、24チャンネル全てをつかって自分たちの声をいくつもオーバーダビングしてコーラスを作ったりと、スタジオの作業が楽しくて仕方ないという感じだった。
彼らはバラエティ番組などにたくさん出ていたので、テレビの仕事が終わって夜の12時頃に私の家にやって来る。当時、私の家には簡単なレコーディング機材があったので、「こんな曲作っているのだけれど、どうしよう」とか言いながら明け方までデモテープを作っていた。朝になるとそのまま寝ずにロケに行っていたけれど、いつ寝ていたのだろう。
たのきんトリオがデビューした時に大瀧さんは「俺は野村義男だけが残ると思う」と予言している。亡くなる半年ほど前に会った時、義男だけが残ったねとしみじみと言っていたのが思い出される。もちろん、マッチもトシちゃんも今も芸能界では活躍はしているけれど、音楽業界という視点で見ると、野村義男は今の若いミュージシャンたちにとっては神のギタリストの一人になっているのだから。
思えば、野村義男は大瀧さんを始めとした素晴らしい人間関係に恵まれ、誰しもが認める本物のミュージシャンになったと思う。
≪著者略歴≫
川原伸司(かわはら・しんじ):1950年東京生まれ。ビクター・エンタテインメントを経てソニー・ミュージックのチーフプロデューサーとして、大滝詠一、TOKIO、ダウンタウン等を手がける。又、ペンネームを平井夏美として松田聖子『瑠璃色の地球』、井上陽水との共作で『少年時代』等を作曲。2010年にソニー・ミュージックを卒業後はフリーのレコード・プロデューサーとして数多くの作品に関わり現在に至る。
本日12月12日は1980年、近藤真彦「スニーカーぶる~す」がリリースされた日。新人歌手のデビュー曲が週間チャートで初登場No.1に輝くという前代未聞の快挙を成し遂げた楽曲。作詞の松本隆にとって...
1978年(昭和53年)1月放映開始され、他のどのチャートにも増して「時代を映す鏡」としての役割を80年代にかけて果たし続けたTBS系音楽テレビ番組『ザ・ベストテン』。8月28日放映のそのチャー...
大瀧詠一君が亡くなってもう4年になる。亡くなる少し前に大瀧君はNHK-FMで放送していた『大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝』の次の回の為の資料集めをしていて、リバティー・レコードでA&Rとプロモ...
1981年8月5日にフォーライフ・レコードから発売されたイモ欽トリオのデビュー作(シングル)「ハイスクールララバイ」は、松本隆が作詞し、細野晴臣が作曲・編曲した作品である。メインボーカルを長江が...
1973年、日本のロックは(キャロルがちょっとでてきたとはいえ)国民的にはなかった。フォークは歌謡曲みたいだった。歌謡曲は「田舎の代名詞」であり、日本を覆う巨大なバリアーで知性の敵だった。その中...
1982年の9月9日、TBSの『ザ・ベストテン』で田原俊彦の10作目「NINJIN娘」が前週に引き続き1位を獲得した。オリコン・チャートでは2位どまりだったこの曲、同番組ではトータル3週連続で首...
6月21日は1981年に大滝詠一が「恋するカレン」をリリースした日である。大滝詠一は失恋ソングを『ロング・バケイション』になるまでほとんど歌ってこなかった。大滝としてはレアだったハートブレイク曲...