2018年08月28日

1980年8月28日、田原俊彦「哀愁でいと」がザ・ベストテンの1位獲得

執筆者:丸芽志悟

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1978年(昭和53年)1月放映開始され、他のどのチャートにも増して「時代を映す鏡」としての役割を80年代にかけて果たし続けたTBS系音楽テレビ番組『ザ・ベストテン』。1980年8月28日放映のそのチャートでトップに立ったのは、田原俊彦のデビューシングル「哀愁でいと」だった。


曲に対するアレコレより先に、当時の男性アイドル界を巡る時代背景の方を語って、前置きに変えたくなってしまう性は、リアルタイマー故どうしても避けられない。75年に郷ひろみが事務所を移籍し、78年にはフォーリーブスが解散という激動に見舞われつつ、80年に至るまでの数年間のジャニーズ事務所は、女性メンバーを含むユニット・VIPや、ロック度を増していく歌謡界の風潮に応えてみせたかのようなバンド・ANKH、さらには後にカルトソングとして予期せぬ再発見を得ることになる「マサオ」で、バッドボーイ演歌とでも形容できるスタイルを試みた赤木さとしなどをデビューさせながら、言わば「青の時代」を通過していた。普通ならとっくに中堅と呼ばれていてもおかしくないかつての「新・御三家」が相変わらずヒットを放ち続ける一方で、ロック/ニューミュージック畑の若手達がアイドルの領域を侵食していたこの時期、突然刺客のようにシーンに食い込んできたのが「たのきんトリオ」の3人であった。


社会現象と化していたTBS系ドラマ「3年B組金八先生」の生徒役にキャスティングされた、当時ジャニーズ所属だった田原俊彦・近藤真彦・野村義男の3人。第1シーズンの放映が終了する80年3月には、この3人のアイドル人気は決定的なものとなっていた。となると、次は当然歌手デビューである。たのきんトリオをユニットとしてデビューさせるのではなく、一人一人の個性を際立たせて歌謡界に送り込むという戦略の先鞭を切って、6月21日に「哀愁でいと」がトシちゃんの初めてのシングルとしてリリースされたのである。

当時、金八の生徒と同じく中学3年生だった筆者は、YMOを筆頭とするテクノポップやニューウェイヴに傾倒しながら、王道歌謡曲に対して多少冷めた目線を投げかけるという、複雑な側面を通過していた。周りにいた友達の反応を思い出してみると、ニューミュージックに傾倒していた男子達は、総じてたのきんに対しては冷笑的な態度をとっていた。その一方で、あまり勉強が得意ではない、でも本物のワルにはなるには勇気がちょっと足りないという形相の男子達は、女子達ほどではないけれど、たのきんの魅力に傾倒していた。筆者が主につるんでいたのは、後者のタイプの奴らだったので、必然的に「哀愁でいと」を耳にする頻度が増えていたのである。

今、その頃のことを振り返ってみると、たのきんトリオが芸能界にもたらしたものは、それこそ「水で薄めたパンク」のようなものだったと思い知らされる。無鉄砲で、勢いだけで歌っているようなヴォーカルは、一部の人達にとっては冷笑ものだったかもしれないけれど、何を真の「格好良さ」と形容すべきか読み辛い生温いシーンの刺激剤として機能するためには、このくらい「生」でなければいけなかったのかもしれない。のちに「ひょうきんベストテン」で片岡鶴太郎がマッチを演じるのを見て、やはり「あれってやっぱりパンクかな」と再確認したり。The Good-Byeとしてバンドデビューしたヨッちゃんが、王道ロックよりさらにマニア受けする方向性を模索したのを聴いて思わずニヤリとしたり(ちなみにリーダーだった曽我泰久は、前述したANKHの出身)。勿論シブがき隊も忘れずに。今じゃ信じ難いことだけど、光GENJIでアトラクション路線の礎を築き始めるまで、この無鉄砲さこそがジャニーズの勢いを加速させたのだった。そもそもジャニーズ帝国のスタートが映画『ウェスト・サイド物語』に刺激されたことなのだから、これこそ「先祖返り」だったのかもしれない。

青の時代から、いきなり本性露出へ。その出発点として申し分のないチョイスだったと言えるのが、この「哀愁でいと」だ。


同じようにパンクとディスコに鼓舞されていた米国の音楽シーンの隙間で、アイドルとしてもてはやされていたレイフ・ギャレットが歌唱した「NEW YORK CITY NIGHTS」が素材として選ばれたのは、前年大ヒットした西城秀樹「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」への目配りあってこそか。レイフを育て、ピンク・レディーの米国進出の黒幕としても知られるマイケル・ロイド同様、大プロデューサーで後にカリフォルニア州副知事にまでなるマイク・カーブ傘下で映画のサントラを多数手がけた作詞家、ガイ・ヘムリックにとっては、意外なところからの印税収入にウハウハだったのではなかろうか。その原詞の「語感」を意識しながら、たのきんの基本アティチュードを反映した絶妙な日本語詞を提供した小林和子の手腕も見逃せない。

オリコンチャートでは、10週間1位を独走していたもんた&ブラザーズ「ダンシング・オールナイト」に阻まれ、1位の座は逃してしまったものの、70万枚を超える売り上げを記録。より民意を反映したチャート作りをしていた「ザ・ベストテン」では3週に渡り1位を独走した。



B面に収録された「君に贈る言葉(アフター・スクール)」は、後にファーストアルバム『田原俊彦』の中の1曲としてフルヴァージョンがリリースされた「アフター・スクール」をベースに、マッチとヨッちゃんと共に繰り広げる赤裸々な青春トーク。トホホ連発を強要させる言葉選びのセンスで一瞬の隙も与えないこのB面のカルト人気も高いが、初回限定ピクチャーレコードとしてリリースされた前述のファーストアルバムは更に凄い。YMOの『増殖』からの影響も伺える(というか、小林克也その人もちゃっかり登場する)ラジオ・ショーのスタイルで展開され、中でも2曲を提供もした近田春夫とのやりとりは実に痛快であるが、曲そのものの出来が意外にいいのだ。恐らく、デビュー曲の座を巡って「哀愁でいと」と激闘を繰り広げた楽曲群からさらに厳選したのではないかと思われる。いきなりアルバムを出す必要性にかられ、急造楽曲やカバー曲を集めあげたとしたら、ここまでのものができる訳がない(ちなみに「哀愁でいと」は未収録)。さすが時代の覇者、デビューアルバムにして業界からの期待も半端なかった。


ここから先のトシちゃんの歩みに関しては、敢えて繰り返すまでもないだろうが、デビュー8年目にしてさらなる代表作と呼べる一曲「抱きしめてTONIGHT」と巡り逢うことを持ち出すまでもなく、決して舐めてかかってはいけないのが彼の音楽キャリアだ。じっくり向き合ってみるのも、"BAD"じゃないだろう。それでも、ファーストアルバムの3ヶ月後に早々とリリースしたセカンドアルバムで、ジョン・レノンの遺作『ダブル・ファンタジー』の1位を阻んだのにだけは、ちょっと恨みがあるんだな。

田原俊彦「哀愁でいと」『田原俊彦』(ファーストアルバム)レイフ・ギャレット「NEW YORK CITY NIGHTS」ジャケット撮影協力:鈴木啓之&丸芽志悟


≪著者略歴≫

丸芽志悟 (まるめ・しご) : 不毛な青春時代〜レコード会社勤務を経て、ネットを拠点とする「好き者」として音楽啓蒙活動を開始。『アングラ・カーニバル』『60sビート・ガールズ・コレクション』(共にテイチク)等再発CDの共同監修、ライヴ及びDJイベントの主催をFine Vacation Company名義で手がける。近年は即興演奏を軸とした自由形態バンドRacco-1000を率い活動、フルートなどを担当。 2017年5月、初監修コンピレーションアルバム『コロムビア・ガールズ伝説』の3タイトルが発売、10月25日にはその続編として新たに2タイトルが発売された。

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